2015年9月4日金曜日

友人逝く

詳しい事はまるで知らされていないのだが、地方紙で友人の葬儀欄を見た。

逝きやがった。

数々の破天荒なエピソード。書き出せばきりがない。
楽しい奴だったが、どこか破滅的な匂いのする奴だった。

最後に逢ったのはいつだったか・・・・。
どう言う所できっかけが有ったのか思い出せないが、とにかく久々だったので別れがたく、近くの国道沿いのファストフード店で小一時間話をした。

ソレ以降の事、今はどこで何をしているのか、前を向いているのか・・。
聴きたい事は山ほどだったのだが、少し寂しげな奴の笑い顔を見ていると、聞き出せなかった。
 
それでも「大丈夫だ、建築の仕事してるよ」と聞いて安心しようと思った。
それから10年は経っている。


2015年8月31日月曜日

宗教的行事の準備に参加

報恩講の準備に駆り出された。
初めていくので、と言うより他人と共同作業と言う場面が苦手なので気後れしている。
が、とりあえず身内の顔を見つけて仕事をする。(実は今までになくパニクッタ)

講師とか、プレゼントか、通常の仕事とか、別もの扱いされているならば、やることは決まっているので迷いもないのだが、今日はどういう訳か気持ちが揺れた。

まぁ、やって見ると世間話合間に手を動かしているような物なので気楽でぬるい仕事なのだ。そうかこう言う仕事なのか・・。

思うにこう言うコミュニティ類の仕事の知恵と言うのは、普段やっている「責任が~、使命が~」などと、覚悟抜きには出来ない仕事と違って、その人の持っている能力のほんの一部分を使うのがルールなのかもしれない。

正直今まで、そう言う気楽な取り組みはしていなかったな。やると決めたら全力。だから周りも辛かったかもしれない。(NPO時代を思い出す)
だけど、どこで手を抜けばよかったんだろう・・・。

 体力的に疲れる仕事もなさそうだし、「僕でなくとも出来る仕事」ばかりなのだ。

あれ?僕でなくても良いならなぜここにいる?なんて思いながら、無責任な状態を楽しみながら、ブラブラしていた。

あれ?ここの斗栱(ときょう:梁や桁にかかる力を分散させるための木組み)よく見りゃちょい変わってるぞ。これは3Dで残すべき木組みだ。新たな発見に一人気をよくする。



最後に化粧幕を張り作業は終了。

久しぶりに会ったいとこが仕上げの幕に何かと指示を出している。

その腰付きが悪くない。

2015年8月27日木曜日

妙な物が意外と興味を引くらしい


財布代わりに使っているカードケースの記事が意外と安定したヒットがある。
毎月50以上のヒット数。たいした数字ではないが、中身のない小物なのに、へぇぇ・・なのだ・・。
低空飛行なのだが毎日必ずヒットがある記事は珍しい。

上のリンクは昨年6月の記事。そこで、下は今はどうなっているかの写真。

変わったのは硬貨が当たる部分に、一般の財布の内貼りに使う合成皮革を貼ったのと、同じもので硬化落下防止の為のベロ(何というか判らない)を付けた事のみ。

ビンボ臭い?ビンボだからこれでいいのだ。
よく長財布がスマートと言うが、長財布なりの金を支払う仕草がスマートなのであって、それは経済的な戦士スタイル。よれたジーンズしか着ないオッサンは、経済行為から離れた役柄なので財布は極小なのだ。

好印象かどうかを決めるのは、財布その物のデザインではなく、役柄やシュチュエーションだろうね。ウォレットチェーンを付けてまで、ジーンズの尻ポケットに何やら分厚い財布らしいものを突っ込んでいるのはどう見てもスマートには見えない。

長財布もそうだが、金を払う時如何にさりげなく行うかなのだろうが、「それが財布かよ!」と言うのも一つの遊び。(コンビニの人達は財布と客の動作をよく見てるね。)

ま、もう少し高級な仕上げにしてやってもいいのだが、面倒くさい。(その内やろうと思ってるが)

これで何かの拍子に硬貨の音がしたり落としたりすることは無くなった。相変わらず床付けもしない皮を貼り付けたままだが、何の不自由も感じない。

よくwebで見かける「薄いとか小さいとか」を売りにしている財布もあるが、全然欲しいとは思わないほど容量と大きさに利点がある。

大きさはカードケースというのは何にしても利点。これ以上小さくは出来ない大きさ。更に改造する事はあるだろうけど、僕はこの路線で行くだろうね。


2015年8月6日木曜日

ふーすいすい

12歳の頃、中国の東洋占星術にはまって、ついでに西洋占星術をやってみた。すると、西洋占星術がまるっきり東洋占星術のパクリだと言うのが分かった。

中学生なりに「おーこれがシルクロードか」なんて感心してた。

その後、いわゆる今風に言うとブラックマジック・ホワイトマジック(ダヴィンチもこの頃なめた)、それ系のオカルトや聖書やバラモン、その他の新興宗教本、ギリシャ神話あたりで、平行してギリシャ哲学や現在に至る心理学などを読み漁り、日本のではオカルト澁澤龍彦を一通りかじった思春期。


まぁ、それぞれ本の上澄みを読んだだけなので、たいして役にも立ってはいないんだが、今なら、かなり危ない犯罪に走る寸前の若造と評されただろう。

人間、無い物ねだりをする時に道を踏み外すのだが、読んできた物は全て「現実には無い物」。
最近ニュースになっている「人を殺してみたかった」のような情動から得られるものは無いに等しい事は知っていた。

だからそれに類する事件を耳にするたびに、マスコミが異常性を際立たせるために言う「殺してみたかった」と言う表現を目にするたび違和感を感じる。そんな「個人を異常に仕立てあげる」のではなく、現代の「死に至る情景」を見たことが無い世代が多くなった異常性に着眼すべき、と思う。
ま、それはこの件に関して関係ないが・・

ヨーロッパやイスラムの、権力者側のコミュニケーションツールとしての建築を見て「そう言えば西洋建築学は体系としてあるが、東洋の建築学は無い」事に気が付いた。

それに代わる物として、環境工学として地理風水を読みたくなったのが25年ほど前。荒俣宏がデビューしたての頃だ。

この本はその頃「中国の文化大革命などや度重なる焚書で、大陸には風水の本が無い」と台湾人に近しい人に言われて購入した本。

今でも基本路線の風水が残っているのは、台湾・香港・沖縄(隠宅のみ)。韓国は国民性なのか、まじないの中の呪いの部分しか残っていない。相変わらず富士山に見立てた岩を毎日叩いている。ww

どうでもいいことだが、どくたぁ なんとかと言う 自称風水師が居てそれにつづく連中が日本にもいる。

言っておきますが、風水師とまじない師は違う。
面倒だから省略するけど、弁護士と司法書士ぐらい違うのであります。

日本のアレ達は、みんなまじない師。風水は権力者の物だったけれど、万民の為・政策として使われた物。個人の欲や怨念などを増幅する為、あるいは不幸を押し付ける為に施術を行う、まじないとは違う。風水は今の中国が忘れてしまった、他を活かし共栄共存、これに基づいている。我欲の物ではないのだ。

古代中国での科学と言う体系の下、地理風水は書かれている。この裾野は医学薬学まであり、その延長に現代に残る鍼灸や漢方がある。また天文学東洋占星術や地学地勢学もある。構造力学・材料学もこの体系に含まれている。学問のブリタニカ東洋版と言ったところの物だ。

自称風水師達の商売を見て思うのだが、金を払う側も「えんたーてぃめんと」の代償なのだろうからどうでもいいが、その連中が近くに居る時は許しませんよww。
頼まれて、大手建設会社の営業マンたちにも「まじない手口と論破方法」講習をやった事もある。ww

唐突にFBで「風水」の文字が目に入ったもんだから、本棚から引っ張り出してみた。
相変わらず「原書 地理風水」にしては底が浅い。
まぁ細かい所はどんな宗教でも後付なので「原書」としてはこれでいいのか・・・。

追記:
googleで検索中、国土交通省で こんなのがあって 笑わせていただきました。


2015年7月29日水曜日

作られた「物」が正確に記憶してる

ビルも、20年もすると相当痛みますね。

ビルも、用途や構造・仕上げも多種多様。

その時の法規や経済状況や職人事情などで、千差万別。

単なる流行だったり、経済事情などの背景がシビアだったり・・・。

設計者の力量や施工企業の技術力、職人さんの配慮や材料の優劣・・。

その時、優先順位がなんであったのかを、「物」は正直にかつ正確に記憶していますね。

まるで考古学気分。いや、勉強になります。

2015年7月19日日曜日

ザハ・ハディドが悪いのではなく・・

すっかり日本でも有名になっちゃったね。ザハ・ハディド。

これは北京に建設される世界最大の空港(LINKは元ネタ、どういう人かこの時点で判る)

ん十年前、この人の才能を一番最初に評価したのも日本人、建築家磯崎新氏。

彼女、昔はとがった直線構成で床も2次元的斜め(片側だけでなくw)だったりして・・。「表現したいことは判るけど、それを【建築】でやるなよ」と思ってた。

彼女の基本、絵画なのよね。それがネタとして建築を使う。ほんとはちょっと建築をいや技術を侮辱している人。

時代が変わり建築家も、一人で何でも出来る人が少なくなって(いや本来そうでなければならないのですが)、分業制やCGの時代に突入すると、色んな人とチームで補う事が普通になった。

そうすると、あ~ら不思議、彼女のそれが「建築的」に見えて来る。ww
いや、他にも実際「絵」で食ってる建築家も多い。ww 
中にはあるCGプログラムの、ある一つのプラグインに、デザイン依存している有名建築家(自分では使えない)さえいる。それを使うとそれっぽく見える。見えたら勝!www

ザハもその傾向が有って、彼女のデザイン目的は骨組より「表面の膜」の表情。いや非常にCG依存度が高いせいか、彼女のデザインではなく彼女の案を描いているCGスタッフの傾向が出る。そこには彼女の想定してないCGプログラムのコマンドの癖もある。

通常「膜」は骨組間を連続させる物だが彼女のは違う。そこの違いが判らないと組み立てようがないのだ。(今回の日本側の解釈は面白いぐらい考え方が判っていない)
 
彼女の事務所が日本の競技場に関してこう言っている。「日本は既存の技術に縛られている」と。
 
この技術的ギャップ。彼女側の言い分も判る。

安藤氏が理解できていたかどうかは知らないが、彼女は生物的な構造をイメージしていた。ここ10年の彼女の傾向がそうなのだ。

それは現在の国交省がかろうじて認めている(設計業界では面倒なのでやりたがらない)3次元的な自由形状の有限要素法的構造解析手法による構造物だった。

平たく言うと3DCGをベースにした構造解析。現在の日本で行われているのは、その中でもせいぜい建築を計算公式に乗っかるように、線形を組み合わせた3次元モデル。ザハの形を実現させる技術は、線の構造モデルではなく「ソリッドな3次元構造モデル」だ。これは全ての部材をメッシュに切る高度な解析技術なので、日本の建築分野ではまだ一般化はしていない。


まだわかりにくいね。じゃこう言う説明ではどうだろう。

立木がある。これはどのぐらい強さがあるか。曲面のみで構成された自然物の強度。今まではそれを似たような幾何形体に置き換えて計算していたが、リアルな形状での強さを計算すると言う複合的な計算技術だ。

これを正確に計算するのは容易な事ではない。でも3DCGと材料工学と建築構造を融合させる事で、極めて近似値まで計算可能にはなっている。

当然、構造に興味が無いザハはその方法論自体は知らないだろうが、世界にはそれを行う(マネージメントと言う方が適切か・・)建築家が居て、彼女もその存在を知っているのだからしょうがない。現実に日本は遅れをとっているのだ。



原案と、コンペ以降に彼女の案をベースにして日本で書き直した案。

これは一見似ているように見えるけど全く異質な考えによるもの。ザハ側のもヒドイが、日本側の手直しした物もひどすぎる。

ザハはアーチに重力を無視して弾性を求めているし、修正案はこれを剛として、最初から最後まで過剰に同一断面(計算しやすい様に手抜き)にしてしまっている。

修正案。もしも、それぞれの部位に発生する荷重を忠実に構造に負担分布させたなら、こう言う形にはならない。修正案は見せかけの骨組みに固執した結果の、それも過剰設計と言わざるを得ない。


修正案は中央開口リングを外周で支えたドーム。ザハ原案のキールアーチは船の竜骨を意味している。無論本来のキールアーチは水圧に抵抗するので木造船等では基本骨格で太い物だが、重力関係を逆転した空中にあるので本来の骨格的意味合いは無い。

日本の構造者はそこを無駄だと言っている。さもあらん。しかしそれは船の場合のキールアーチであって、空中には空中に有るべき形はあるはずだ。それを見出さずに結論付けるのは早すぎる。日本のこのアーチの方がザハよりもっと意味がない。

大きな違いがある。ザハの屋根膜は膨らんでいて自立しているが、修正案はアーチからぶら下がっている。アーチに荷重を集中させているのが、そもそもの・・・。読み違えの諸問題はここから始まっている。

ザハのはまだアーチから下部のシェル構造あるいはリング構造へと、力を有機形態で分散させるデザイン要素が残されているが、日本のはその検討が無い。だから地下に巨大なタイバーが必要となり地下鉄にまで影響を及ぼす。

例えば、一番高い部分とそれを支える下部の部分では、負担する力は大きく違う。ならばそれぞれの位置で、骨組の密度や骨の太さには差が出来て当たり前なのだ。木に例えれば、先端の梢・枝・幹そのなかでも負担によって全て太さは異なる。この規模の構築物の究極の合理的構造=自然形態は、そうした重力的ルールによる物だ。

中小の構造物にそのシステムを用いるのは部品数が少ない故の製造コスト高になるが、この巨大な規模だからこそ中小とは逆に、「自然の摂理」に従わなければ確実にコストアップになる。

ザハは案の時点ではその事に気が付いていないので、修正する時に「地球上の脊椎動物には全て小骨がある」事を了解させれば良かった。それを修正する機会があったのに「修正案」は、構造的答えを数学的物理的に収斂させる手続きを怠っている。それはアナグラムを作成するかの様に物性と力との往復が予想されるが、それは中々面白い作業だろうに・・(正直やりたいww)
 
いずれにしても、どちらも理にかなっているとは言い難い強引な構造計画。
これを元に「予算が~」と、ケンケンガクガク。ww
理にかなっていない建築はコストが上がる。これじゃぁな、と言うほかはない。

それにしても国際建築家さん達、正直、情けないよ双方。
周りの無責任さにもね。

関連
ザハのやりたかったこと

2015年7月17日金曜日

63回目を過ぎたところで

Reasons for religion -- a quest for inner peace | Daiko Matsuyama | TEDxKyoto


僕は、あんがい強めの浄土真宗一族に産まれた。

ひょんなことからカトリック系の学校に行きたくなった。
行ってみて礼拝堂を見てそこで勉強したくなった。

良い機会だからと大小の聖書はずっと持ち歩いてた。
尼さんと一緒に勉強したり物事を考えたりするのも役に立った。

3-40代、色んな宗教的建物を考える機会に恵まれた時代、あるインスピレーションが有った。
夜中そんな夢から飛び起きて、見たことをメモしようと思ったのだが言葉にならない。
でも今でも鮮烈に覚えている。

それはこのお坊さんの言う事と非常に似ていた。
いや同じことを意味している。

それを、お坊さんは言葉で説く。
画家や建築家は光(陰影)や物で説く。

でもそれが判った今となっては案外時間も機会もないんだよねw


2015年7月15日水曜日

方丈記の方丈庵-6  方丈庵的な・・・和室を素直にアールデコ化するとこんなんかな。

これはTiny House。 11ft×11ft×11ft のキュービック。
(外寸で3.3mの立方体。友人のリクエストにお応えします)
方丈庵は平面的に正方形だが、これは立方体。

車、スマートの大きさは2.74m。それよりも60cm近く長い。
しかし8帖間(3.64*3.64)より30cmずつ小さい。

日本の影響でアールヌーヴォーやアールデコなんぞというややこしいモンが産まれたが、障子をスチール化すると、どこかヨーロッパのドイツあたり1920年代のデザイン学校がやってたデザインモチーフに似て来る。(笑)  少しレトロデザイン。

(取り壊しちゃったけど北見市役所のスチールの窓、中々面白かったんだけどなー・・。
あの窓金物、もったいなかった。)障子かガラスか、はたまた別な素材か選択は色々。

ドアの高さは1.53mのDoor wicket (small door or gate) くぐり戸。
茶の湯では「ここから別世界」の宣言は結界石だが、ここではわざと禿頭口(茶室用語。ハゲ頭を下げなきゃ通れない)


中身は

  • キッチン(冷蔵庫・食器棚・電子レンジ・コンロ含む)
  • 洗面シャワー兼トイレ
  • 4名かけテーブル兼来客用ベット(セミダブル) 
  • ワークスペース
  • ベッド(ダブル)と
  • 2畳ほどのフリーな空間。


これらは特別小さなモジュール寸法のナニカと言う物ではなく、キッチンも60cmの通常モジュール、冷蔵庫は彼女とディナー用の食材とワインが冷やせる90L(何人で住むつもりだ、おい!)。

とまぁ、ほぼフルセット。(まず、信じてくれないww)

ほぼ・・と言うのは実は洗濯機が無い。置けば置けるんだけどアレの周りは美しくないのでこれには入れていない。(付け加えるのは可能。)

これは平面的に、日本式のプランニング手法(大枠を決めて間仕切りしていく)とも、海外での手法(用途を接続していく)とも違う、限られた空間、立体を斬っていくTinyHouse手法と言っていいと思う。キャンピングカーなどでも使われる一人称的寸法と言うべきものだろうか。

ま、そう言うジャンルがあるのです。





方丈記関連
1.方丈記の方丈庵-1 日曜日なのでTinyHouse
2.方丈記の方丈庵-2 今までの研究内容に納得がいかない
3.方丈記の方丈庵-3 ディテールについて
4.方丈記の方丈庵-4 カーテンウォール「網代」
5.方丈記の方丈庵-5 外装の変更



方丈記の方丈庵-5 外装の変更

ふと、旧来からの友人と話していて思いついたので試してみる。
主な骨組格子はそのままにして、網代貼りだった蔀戸、板張りの舞良戸を障子に変更してみた。
妻の網代パネルはそのまま残している。





そう言えば日本には昔から「防水紙」があった。
和紙に菜種油等を含浸させた物だ。
時代劇の長屋に見られる障子、アレ。

多分鴨長明の時代にもあったはずだ。

ただ、鴨長明自身が記述しているように、この方丈庵にはそれは無い。
まぁ、元祖プレファブ・モバイルタイニーハウスとして記録に残る「方丈庵。」
このぐらいの遊びは良いだろう。

格子をそのままにしているので、まだ少し検討する必要があるが、思った通り現代的表現になる。
ふーん・・。面白い・・・。

方丈記関連
1.方丈記の方丈庵-1 日曜日なのでTinyHouse
2.方丈記の方丈庵-2 今までの研究内容に納得がいかない
3.方丈記の方丈庵-3 ディテールについて
4.方丈記の方丈庵-4 カーテンウォール「網代」
5.方丈記の方丈庵-5 外装の変更

2015年7月8日水曜日

気になったTinyHouseを写真から起こしてみた。(sketchup)

前から気になっていたTinyhouseがあったので3D化した。手掛かりは写真のみ。(元ネタの写真集
この写真集の撮影にはきちんとした照明機材を用いているようで、こちらも多少外部に照明を当てた。大きさはほぼ8畳間なので撮影には各種のレンズや補正を用いている。プロ・・だね。
まずは一通りこの写真集を見て欲しい。話はそれから。

サムネイルが元ネタ。家具その他は時間が掛るので手抜き。床のマテリアルも作らなかった。

でも、8畳と言う広さを改めて見直す。この中に台所もあればシャワー兼トイレもある。
2人で暮らすには狭いが一人ならば十分だ。

建築をやっている夫が設計し、妻にプレゼントした約8帖大の小屋。


外観:バルコニー付属だが、本体は8畳程の広さ
書斎 ワーキングスペース
居間部分 家具はしごも省略

収納付ロフト マットが置かれる

実は最初屋根勾配を間違えた(判らなかった)。空間寸法がどうにも
合わなかったとき、ふとこのサムネイルにある十字架で気が付いた。
この屋根勾配は、黄金比を用いていた。このダンナ・・やるわww

上の画像はちょっと暗いので マットを置いて光を拡散させた



















元ネタのwebには平面図などは無い。これは写真をスケッチした物。写真がプロの技が多過ぎて、SUのトレース機能は使わなかった。だから2・3cmの誤差はあると思う。


写真は巧妙にそれぞれのパーツの大きさを連想させないように写している。これには誤解を避けようとする注意深い意図と解釈している。

これは「なんだ、実際は小さいのか」で話が終わる人が多いから。そこじゃないんです。もちろん小ささを競う競技でもない。


TinyHouseの価値は、現実の物の大きさではなく、日本の茶室の様に心象的内省的空間の広がりにこそ価値がある。

写真集は十分それをとらえていた。
この設計者の意図はそこにあるのだろう。

何ゆえにこの狭さ。

実はこうなのだ。
建築は相変わらず権威を表現する道具でもある。
広さや大きさはその依頼主の経済的影響力の手っ取り早い象徴でもある。
その権威が空しい物に見えた時、いや何かに気づいた時、それを是としてきた建築家は猛烈な虚脱感に襲われる。そう言う失恋にも似た傷心感を持った建築家は案外多い。

コストパフォーマンスなどの経済や工学や建築学では到底ない話。さまざまな形で、一丸となって人の欲望に迫ってくる物欲等とも一線を引く。

それは、例えば「建築での愛情表現」と言うもの。こっちの方の話なのだ。

「広さ・大きさ」の対極にあるこの心理的建築設計手法は、晩年期のコルビジェやライトにも見られる。ルイスカーンにもちらほら・・・。それが自然に見えてくる。設計者の想いの密度が高まればこのようになるのだろう。

空間を小さくして、内省的空間を大きくする。
人間が持つ補完本能としても有効である。
しかし内省的空間感覚には個人差がある。
TinyHouseはまさしくその柔軟な尺度によるものなので、理解できない人も多数いる。
これは仕方がない事。



子供のころ誰もが体験した小さな空間。
あの時感じたワクワクした心は、外の刺激によるものではなく自分の中にあった物。
案外そこは広い。

2015年7月3日金曜日

#エネルギー政策

facebookに書いたモノのメモ




#エネルギー政策:(ローエネルギー=ローテクノロジーエネルギー=自然エネルギー) ローエネルギーにはローテクで対応するのがエネルギー利用の基本的基本、鉄則だ。 太陽光利用は自作の方が効率を良くする工夫がしやすい。どこのメーカーもそん...
Posted by 杉本 賢二 on 2015年7月3日

2015年7月2日木曜日

スーパーの売り場を見て思う。

そんなに手柄を立てたいかなぁ。
平穏な水鏡に石を投げ込んで波立たせる。
スーパーの売り場を見て思う。

そもそも、健康的食い物については、諸説入り乱れて何が正しいのか誰も判断できていない。
その時点での有力学説。これ自体も学説正否を多数決で決めるようなちと怪しい物。
後でまた、それに反するような物が出て来る。

学説は仮説からスタートする。
その仮説に基づいて、あるいは誘導するように組み立てられる。
建物の強度や性能も最初は仮説から始まる。
どう地震や強風被害から守るかによって骨組が計画される。
各種の性能も同じ。断熱や静粛性など、要求に応じた(誰かが得をする)仮説によって組まれていく。
 
必然、ある過去の性能を上回る技術が生じれば、それらの技術や視点は淘汰されていく。
一つの説のみがずっと居座るという事は無い。

栄養学の人達は「何を言う」と言うだろう。でも、常時放し飼いの人間たちが、常に食物を管理して環境も維持できているかと言うと、んなコタ無いわけで、やはり環境順応動物らしく、周りの雰囲気に流されながら生きている。管理できる状況あるいは強固な意志で。それは特殊状況なのだ。
 

「牛乳は体に良くない」と書いた一人の医師が居る。刺激的なこの説はベストセラー本になった。

今迄信じて来たモノに異論を唱えれば当然注目されるが、それは仮説と類推で書かれた物だった。

だが、真実性より新奇性のみが命のマスコミに取り上げられる事で、生産者は大打撃を受けた。

本当かウソかは知らん。誰にも判断がつかない。しかし、健康学説が正しいとしてみんな長生きしちまったら社会は崩壊する。

それは、あらゆる分野の全ての学説が目標としている社会構造維持からすると本末転倒だろう(笑)。長生きしたい連中に聞いてみたい。

「長生きしてなにがしたい、なにが出来るのだ?」 ま、それはおのおのの、欲得や煩悩の深さに応じて考える事。

だが生産者が窮地に置かれたことは事実だ。現在発売されている飲料の中で「命をはぐくむもの」として運命づけられて世に出たものは牛乳のみだ。後は人智で作り出した物。一つの物に「神の恵み or 人智」の2つの選択肢があったなら、僕は間違いなく神の方を選ぶ。

そして生産者も良い物を産みだしたい一心。(酪農業って一律にそうなので感心する)
いや牛が、配合飼料がどうあろうとも(日本のはまともだ、海外は知らん)、手を抜かないだろう。牛は間違いなく哺乳類代表として、性善説で乳を作り出している。手を抜こうなどとの不心得者の牛は一頭もいない。

神と生産者達の気持ち。この2つが有れば、もしも万が一この医師の仮説が正しくても十分飲むに値する。栄養などよりも尊い物だ。長生きしようがしまいが、それは神のご意志だろう(笑=浄土真宗) をう、牛乳信者で結構でございます。

笑っちゃうのが「牛乳の成分にあるこれが、こう言う体質の人に・・」と言う説明。それ、牛乳のせいじゃなく、支障が起きるその人の方の問題だろ。その人は牛乳飲まなければ解決してるのか?違う場面でも出てるんだろ?もしもそうならば相性悪いモノが判って良かったじゃん。特殊例を持ってきて手柄話(一般化)するなよ。(笑)

僕は、むやみに体に負担をかけるスポーツ愛好者や、身体作りのプロティン愛用者や、偏食代表格のベジタリアンや、病院通いが好きな癖に多重薬害を口にする奴や、サプリメント常用者や合成飲料がぶ飲み、酒や喫煙している奴や、ぷよっとしている奴が、この医師の説をさも信憑性があるように話すのを見ると「お前、馬鹿だろ!」との烙印をまちがいなく押す(笑)

その馬鹿達のおかげでバターを初めとする乳製品の生産バランスが狂った。
世を狂わすのはいつもマスコミが原因だ。それに流される連中、少しは落ち着け。
何だ都府県。お前ら、糖分たっぷりのコーラやポカリの方がマシだと思ってるのか?

 
「乳製品がダメと言う奴は哺乳類ヤメロ」。
これを言ったのは僕じゃないが、仮説の冗談としては少し信憑性がある。(笑)

2015年7月1日水曜日

デザイン design(計画)屋は因果な商売

芸術家は自分の思いや感情を表現するのに対して、デザイン屋は顧客の欲望や願望を「程度に合わせて」形にする。
一旦経済課題など現実に引き戻し鏡を見せて、異を唱えたり賛同したりの意見を言い、それから良い方向に持って行くにはどうするかという事を種々選択協議する。

社会性を帯びれば「それはしてはいけない」と異を唱える場合もある。これは実にリスキーな状況。
その相手が、自分自身への耐性が無い場合、これは両刃の剣。少なくとも相手の事を真剣に考えている、第三者一番目候補の私を対象に否定したくなる。だがそれは承知の上だ。

必然として「合わない」となる。
だが、ならば依頼者に迎合しただけのデザインを、そのまま世に出して良いのかと言う事。
依頼された程度、そのまま表現すればそれは楽だ。だがそれを世に出した以降変更には膨大なコストがかかる建築だからこそ慎重にすべきだ。

これは事前のシュミレーション。この段階では私一人だけだが、現実に反対する人がいるとしたらどう対処するのか。それが欠けているので覚悟のほどをあえて聞く。

こちらは「良い人である」「社会に貢献する」「有益な存在」と言う看板をさりげなく演出する。
少なくとも「自己中心的」「排他的」「教条的」など、いわゆるマイナスイメージにはフィルターをかける。でもそれはごまかしのオブラートではなく、一連のやり取りの中で、社会的に共感を産む本物となってほしいのだ。



数年前、ある専門分野で高度な名声がある事業主。商業分野での試験段階が済み、実施生産したいとの事で、生産工場を依頼された。
依頼に応じて、補助金等の制度資金など、資金計画を立てる期間、この事業の動機や目的・目標・将来像などをヒヤリングしていく。
その中で依頼主は「金・地位・名声」このビジネス事業で求めたい物は何なのか・・・。(ビジネスに住宅に求められるような安息はあり得ない)

結局僕が出した提案。
「全ての生産物はOEMとして、研究機能機関をつくるべき。これによって工場建設費用は不要になる。」
依頼主はぶち壊しの提案に最初びっくりしていたが、その点に関しては納得して生産工場事業化を見送った。

僕は自分の仕事を傍に捨てたが、これも田舎のデザイン屋の仕事だと思ってる。なによりも僕に声をかけてくれた恩に報いる為には、依頼者には絶対にハズレくじを引かせるわけには行かない。これが最優先。

デザイン屋の評価は表現した形とその運用と方法論が全て。
ではあるが、それに至るまでの根拠はある。感覚的ではない。
表現したのは結果だけなのだ。

実は市場調査や製品官能試験など、依頼主の成功の為の調査も行っていた。
持っている製法ノウハウはどの程度なのか、趣味の範囲かビジネスレベルか。
他社との競合は無いか・・。ノウハウ実現コストはいくらなのか。
これらの分析・処置は滅多に依頼主には説明はしない。
依頼主が知らなくて良い事は沢山ある。