なにかモノを作りたい。あるいは行動を起こしたい。
ところがアメリカには、ウォール街の投資額を上回るほどの資金調達サイト、いわゆるソーシャルファンドがある。
1.のキックスターターだ。2.のキャンプファイヤーはその日本版。
まだなじみが少ないのだが、仕組みは簡単。
行動を起こしたい人がその案を事業スタート予定金額と共にネットで発表し、その案に賛同した人が投資を「約束」する。
スタート予定金額に達しないならばその案は不成立となる。
もちろんその場合には投資は行われない。
日本では資金調達サイトのように、制度資金利用が多く、それも直接事業内容に沿ったものではなく、主に事業体制への判断だ。つまりは間違いがないものにしか出ない。
本来、新規開拓事業というものは上手くいくか間違えるのか判らない性格のもの、努力した者は報われるのが必然の社会を目指すべきところなのに、それを誰が儲けるのか誰がリスクを負うのかの矮小な図式に置き換えてしまった。ここで制度矛盾のきっかけを作ってしまった。
新事業は、それでなくても頭が硬化している役人(市場で揉まれていないと言う職業、という意味)が判断できる性格のものではない。独自判断の自信がない、だから間違えないと言う論証のため、無駄な権威付やお墨付きなどを行う(学識経験者=市場精通者、では無いのだが・・)。
しかし上記はマイクロファンド(小口投資)で投資した方にも何らかの「お礼」メリットまでも約束される。消費者自身が投資者なのだから、発案が支持された時点で市場が存在する事の証明になる。
「間違い」のリスク解除は市場での淘汰が自然。この方法はスタート時点でそれを実験実証していると言える。経済活動を健全に継続させるために必要な「エネルギー(リアルマネーも含め)の循環」は、一巡目から「モノ」あるいは「お礼」との形式で見事に解決されている。
1.のキックスターターだ。2.のキャンプファイヤーはその日本版。
まだなじみが少ないのだが、仕組みは簡単。
行動を起こしたい人がその案を事業スタート予定金額と共にネットで発表し、その案に賛同した人が投資を「約束」する。
スタート予定金額に達しないならばその案は不成立となる。
もちろんその場合には投資は行われない。
本来、新規開拓事業というものは上手くいくか間違えるのか判らない性格のもの、努力した者は報われるのが必然の社会を目指すべきところなのに、それを誰が儲けるのか誰がリスクを負うのかの矮小な図式に置き換えてしまった。ここで制度矛盾のきっかけを作ってしまった。
新事業は、それでなくても頭が硬化している役人(市場で揉まれていないと言う職業、という意味)が判断できる性格のものではない。独自判断の自信がない、だから間違えないと言う論証のため、無駄な権威付やお墨付きなどを行う(学識経験者=市場精通者、では無いのだが・・)。
しかし上記はマイクロファンド(小口投資)で投資した方にも何らかの「お礼」メリットまでも約束される。消費者自身が投資者なのだから、発案が支持された時点で市場が存在する事の証明になる。 「間違い」のリスク解除は市場での淘汰が自然。この方法はスタート時点でそれを実験実証していると言える。経済活動を健全に継続させるために必要な「エネルギー(リアルマネーも含め)の循環」は、一巡目から「モノ」あるいは「お礼」との形式で見事に解決されている。
エネルギー(リアルマネーも含めた社会的資産=資金・モチベーション・人材・能力)の再分配が公然かつ健全に行われるルールのこのシステムは、日本の制度資金よりはずっと市場性があり、社会的に貢献し、その未来を示唆している。
この1と2の中間に位置するソーシャルファンドの創設は無理なのだろうかと・・。誰かやらないのかなぁ・・。
以前NPO関連で「性善説:グラミン銀行」という記事を書いた。
マイクロクレジットの成功
2006年のノーベル平和賞は、バングラディシュのグラミン銀行と、その主催者に与えられた。その後、汚職などのボロを出し続けた国は発案者(ムハマド・ユヌス)の追い出しを図っているが、政治的に抵抗にあっているという。
そして、かつての留辺蘂町にはコミュニティファンド政策があった。これはLINK先を見てもらえればわかるように、行政の能力をも補うものだった。スケールは上記とは少し異なっている。
これらの原理原則は同じ。市場=大衆の意志の反映。制度や政策はその意志の上にこそ成立するとの大原則への流れである。それによって、投資することのリスクは、「民に支持されることで回避できる」と言う事。そしてそれらから生じた利益は、公正に再配分されなければ腐ると言う事。
これがなぜに国や公共の制度設計に活かされて行かないのだろう・・・。金融機関でも類似の金融商品だって作ることは可能だ。
ま、公務員制度が変わらない限り「民の意思」は反映されないのだから、半分公務員の議員共々自浄努力を願うしかないとしても、経済振興に必要なこれらのことですらやれないのかと・・・。(蛇足だ)
うーーーん・・・・・・ ネットでできる事なんだが・・・。
以前NPO関連で「性善説:グラミン銀行」という記事を書いた。
マイクロクレジットの成功
2006年のノーベル平和賞は、バングラディシュのグラミン銀行と、その主催者に与えられた。その後、汚職などのボロを出し続けた国は発案者(ムハマド・ユヌス)の追い出しを図っているが、政治的に抵抗にあっているという。
そして、かつての留辺蘂町にはコミュニティファンド政策があった。これはLINK先を見てもらえればわかるように、行政の能力をも補うものだった。スケールは上記とは少し異なっている。
これらの原理原則は同じ。市場=大衆の意志の反映。制度や政策はその意志の上にこそ成立するとの大原則への流れである。それによって、投資することのリスクは、「民に支持されることで回避できる」と言う事。そしてそれらから生じた利益は、公正に再配分されなければ腐ると言う事。
これがなぜに国や公共の制度設計に活かされて行かないのだろう・・・。金融機関でも類似の金融商品だって作ることは可能だ。
ま、公務員制度が変わらない限り「民の意思」は反映されないのだから、半分公務員の議員共々自浄努力を願うしかないとしても、経済振興に必要なこれらのことですらやれないのかと・・・。(蛇足だ)
うーーーん・・・・・・ ネットでできる事なんだが・・・。
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