sustainable architecture=持続可能な建築。
サスティナブル・アーキテクチュア
最近良く使われるが、この言葉の訳に違和感がある。目的は自然との調和設計
一体、何が持続するのか。国や体制なのか、経済なのか、強度なのか、デザインなのか、エネルギーなのか。その説明がない。
多分そういうと、循環型社会という言葉を知らないのかとヤジが来ると思う。
そこでまた僕は、何を循環させるのか。今まで循環していなかったのか?
と言い返すことにしている。金だけは循環させていたのではないか。
今までも生分解素材ばかりではなかったとしても、ゴミはゴミとして処理されていた。
ゴミはゴミとして最終的にその役目があったのではないか?
役に立つかたたないかは見方によって変わるもんだ。
「私達は循環型社会を目指さなければならない」などという。
今頃、自分たちがやって来なかったから、
我々も当然やっていないだろうかのように、
まるで共犯者のように反省を求められても冗談じゃねぇのだ。
モノ利用流れの、上流から下流への矢印を、確たる方法論もなしに、
クルッと丸め、再度上流につないだだけの循環型社会に共感せよと。
そら、絵柄だけでも甘すぎる。
流通の手の上でしか建築が成立しなくなって数十年立つ。
言い換えれば、昔は現地調達が当たり前だった建築素材がすでに調達できない。
自分たちの範囲で建設材料が作ることが出来なくなっている。
これでは循環しようにもさせられないのだ。
認定番号やら性能表示やら、全て役所のお墨付きが必要。
もう、自然素材がどうのこうのなど言っていられない。
認定番号付き自然素材って一体なんなのだ?
顧客には、自然にも認定番号がついてますっていうのか?
管理され均一化された素材は自然なのか?
番号やそれを決めた連中が、その後の環境責任を全部かぶる覚悟があるのか。
また、例によって過去に規制しておいて現基準に合わないものは
「見過ごす」というジャンルの常套手段なのだろう。
嘘にも大ウソや可愛らしいウソはあるけれど、役所お墨付きの嘘かよ。
役所は言う。私たちは嘘言っていない、と。
(天下り下部組織に言わせてるだけだからね)
その矛盾の中で循環型社会を目指さなければならないという矛盾。
さらに言えば、循環する(朽ちる)建築部材で長寿命化が図れるのか?
そして、その効果は建築行為全体の数%もあるのだろうか。
循環をことさら強調する必要がどこにあるのだ。
江戸時代に戻れるならば循環型も可能だが、「流通の本音」はそれとは違う。
あくまでも販路拡大利益追求だ。下流の矢印が上流につながっているかなどではない。
先に「流通市場上での建設素材が前提の制度」を見なおさなければ、
循環型建築になるはずがない。
いいこと言っているかのような顔で「持続可能な建築」を口にする者ども。
ちったぁ、頭を循環させてそれらの矛盾に糸口つけろや。
もはや、外圧その物の「サスティナブル」ですら、持続は怪しい。
がしかし、スマート建築やエネルギーグリッドは問題なく可能だ。
それはまっとうな路線だ。インチキ(あるいは不作為)建築政策とは素性が違う。
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