2012年7月16日月曜日

30年以上前のボツネタ

だから恥ずかしい過去を暴露するようなもの。そしてボツネタなのだから当然駄作。


僕は過去に作った建物を作品などと言って掲載することはしない。これは昔からだ。
つまりはこれは商売としては実績を説明できない事を意味している。


なぜそうするのかと聞かれた時、若い時には「次の建築が唯一の作品だから」などと格好をつけていたが、実は過去の物に関していつも反省して居たからなのだ。「ああすればよかった。こうすればもっと意向を汲み取れた。」などと、どこかに必ず悔やむ所がある。それを隠して、商売ネタとして宣伝に使うことはとても出来ない。


不誠実だったかもしれない事の迷いに関して、他の建築家はどうやってその気持ちの整理ができるのだろう。スゴイと思う。だから絵画など後に手を加えられる芸術作品などを見ると「いいよな~、それが出来て」と今でも羨ましく思う。


建築は、最善や次善の手を尽くしても、手を離れてしまってはどうしようもない事がある。かと言ってそれに責任をとれるほどの耐力もない。そう考えると、とても厚顔無恥には成り切れない。
それは相変わらず。商売には不利だが・・しかたがない。


ま、昔の自分へのボツネタならば無責任に笑って見せることが出来る。
ということで駄作を晒してみる。



ご多分に漏れず、若い時にはライトやミースやカーンに憧れ、当時は宮脇・山下などが雑誌を賑わし、ギーディオンの「時間・空間・建築」にはまり、それらのロジックを学ぼうと夢中になっていた。

しばし放浪した後、故郷に戻って土建屋さんに就職したが、職業柄描きたいものを描ける状況ではなく、気候風土に関係した課題が山積していた。いまほど寒冷地の建築が確立していなかった。いや、見渡すと環境工学などという物を踏まえて設計された建築は皆無だった。

時代を感じる・・・ R屋根通路はこの時かぁ・・
それまで経験した事のほとんどが役に立たず、基本に戻ってまず購入したのは建築学大系48巻。会社では買ってくれなかったのでローンで購入。とりあえずすべてに目を通した。ようやく学ぶべきターゲットが見えたと思った。


何をしたかったのか思い出すのに手間取る。
知ってるつもりの性癖は元々あったが、知っている事ややりたい事をずっと抑えているのは僕でなくても辛い。



これはすぐに解った。
とにかくやってみたいのだ。そういう時期のボツネタなので怪しい所がある。今ではもっと違う解決方法があるのを知っているが、あの頃あの程度だったからと、若造時代の判断傾向を思い出しながら描いてみた。


メモから思うに階段室はライトの懐古的モチーフだろう。

なぜか通路がついた地下室。普通の地下室ならばまだしも地下で居ながら開放的。この半円屋根はこの数年後某社長宅アプローチとなる。(まだポリカーボネートに耐候性が無かった時代だったので変色しちゃった。)

サンルームが出来たパースを書けばよかったが気力なし
大胆に3方ガラスの浴室。何に自信があったのか何をしたかったのかは忘れた。当時にしてみれば非常に大きなテラス付き浴室。プールでも欲しかったのかな。(泳げないくせに)

当時、天井高を上げる発想はなかったはず。
ユニットバスがない時代。なので、客の家はタイルで書いていたが自分の家は防水上ガラスがイイと考えていた。だからガラス張りだったんだろう。それに快適な風呂といえば当時は温泉の大浴場。浴室のテラスも庭までの関係を展開をしていない。ほとんどおまけ。

で、なんで市松のタイルなのか。当時のタイルで好きなのがなく何度かこの貼り方をしてヒンシュクを買っていた事がある。浴槽は迷わず鋳物の白の洋バス。(ホーローは30年以上経つとガラス質がザラザラ。現在紙やすり状態)


基本的に間仕切りを構造から離す考えは今と同じ。
ガラス張りのトイレ。さすがに全面と言うのは無かったが、断熱に関係なければこの頃からやっていた。当時ペアガラスと言うのは無かったが、大きめの木製ハメ殺しに2重あるいは3重にして落としこんでシーリングをしていた。


当時、この断熱等熱力学分野にはものすごく、必要以上に、過剰に、勘違いするほどの自信を持っていたので、いろいろ欲張りたかったのだろう。(まぁ、それだけ失敗もしてるけど)


どうやら浴室テラスは集熱用サンルームだったのだろう。この頃すでにクールチューブは有効であるのを確認していた。だがパッシブソーラー等の系統だった概念はこの数年後。まだ環境設備分野は苦手で勉強中だったはず。


この時期からあまり庭には興味が無いようだ。
1階はほとんど何の部屋かわからない。

今では、都市部の土地の狭い小住宅では個室群を下に置きコミュニケーションゾーンを上に置くケースがあるが、これはその走りかも。


夫婦2人ならば2階だけで住める。2階は、まぁやりたかった事からハズレてはいない。当時、対面キッチンと言う様式がなかったけれど、今では少住宅によく見られる。

寝室も区切らず箱で仕切っている。ベッドの向きがへそ曲がりなのも同じ。

これは新婚当時の事なので子供のことなど全然考えていない。固定した子供部屋などいらないと考えていた。乱暴だが、実際もそうだった。

それには理由があった。子供は子供同士の話し合いや特質や力関係でその領域を確保すべき、と考えていた。親はそれが出来るようになるアドバイスする立場で、確たる領域を指定する筋のものではない。これも子供部屋の設計に現在ではよく見かける考え方になっている。

色も、窓枠と天井はモスグリーン、床は10円玉を落とすと見つけられない茶色、壁は白。当時は観葉植物を置くのが流行っていて、それらを沢山おいても絶対に負けない家。という事からこの3色を選んでいた。当時も今も天井は白系が多い中、この配色は別な現場でも使って、職人さん達をびくつかせていた。だがその後「住宅で、植物に張り合ってどーする・・。」と気づき、店舗向け配色に限った。


これに、実際に建てた物には、スタンダールに影響されてではないが赤と黒のドアがあったり、ドア枠はブルーグレーだったりする・・・。時たま、何?と言われて若気の至りでと恥じ入る。


どうやら、こんなものでも何かの量販型プロトタイプ(これから一般的に定着するものを・・)をイメージしていたようだ。その頃からの癖なんだと思う。


ま、30年前のボツネタ。 正確にはいろいろな時期から見て32年前だった。
今となっては目新しいものは何もない。ボツネタの範疇であることは間違いない事が確認できた。


小僧が・・・。(唯一そう言ってイイ相手なのだ)

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