2013年3月22日金曜日

え?・・・。コンペに参加した。

ある建築コンペに応募した。 


コンペ参加は20年ぶり・・・。一度やってみて、客体(対象物)を物と形しか見ない審査員達と意見が合わず(現実の生活者が居るのに・・・意見があわなくても賞だけはもらったけど・・。)それ以来興味が沸かなかった。


JIA(日本建築家協会)北海道・テクスチャレンジ設計コンペ

テーマ:「寒冷地で共有する住まいのかたち」-自立する未来に向けて-

21世紀は、私たちが当然と考えてきた多くの事柄を大胆に変えつつあります。インターネットを背景にした急速なグローバル化の中で個人は拡大し、漠然と分担することで成り立っていた社会を否定する反面、共有することでしか得られない新たな価値感を模索しているようにも思います。3.11の教訓は不便さや悲しみを越えて共有することの真の意味を私たちに問うてはいないでしょうか?また社会のあちこちで所有から共有への気付きが生まれています。

参加者のみなさまには、共有することで得られる多様な住いの可能性に取り組んでいただきます。当該コンペの伝統である社会的な観点に立った意欲溢れる提案をお待ちしています。
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単純な、これからの共有する暮らしの建築機能の将来像ならば、独自に去年2012/4頃まとめていた。

しかし、このテーマの設問はかなり曖昧、危険な設問だと思った。
なにかしらうっすら本気か?と・・。

「寒冷地で」と言う事に関してきちんと目標を見ないと、それは単なる技術的課題に終始する。
断熱性能がどうこうなど、そんな事はいくらでも方法はあるし、技術的にも難しくはない。
季節のタイムラグを半年ずらせば、問題の熱収支はあう。それは技術的な問題。
そんな解決済みのコンペならば興味はない。

しかし、昨今の建築形態を見ると奇異性ばかりが重視される。
「必要とされる形の追求」が建築家の仕事だったはずが、道を踏み外しつつある。

そこに来て、万能ではないはずの建築が、他の分野を語ろうとしている。
もし、それをどうしてもやりたいなら、あるいはそれが北海道の建築家の代表意見と
されるならば、とても放っては置けない。それで参加して見ようと思った。

審査は一次審査が通ったら本人がプレゼンテーションを行うことになっている。
出席しないと当然不利になる。まぁ、入選が目的ではないので、出席はしないことにした。

下記の文はもし一次審査が通ったならば、代読してほしいと、事務局に送ったもの。

2013/03/24に審査。  
建物的に言うと、通常の建築の常識から逸脱したエネルギーネタなので、審査員の傾向によるけれど、通じない危険性がある。建築構造計画とエネルギー関連か機械設計に通じる人でないと・・。
デザイン系の人は形に目が行っちゃうし・・・。まぁ、微妙・・。

このコンペ、過去の例を見ると、建築を題材にしたイラストコンペみたいな感じもするが、
もちろん僕はそんなのに迎合するのは嫌。なので、素人向けには描いていない。
ましてや、素人が審査するはずもないので・・・。
色々配慮すると、今回のは感傷的ではなく事務的に伝えるべき物件なのだ。

評価は、どうでも良いけど、言う事言っとかんと。

--------------結果報告---------------------------
難解なテーマから導かれる答えを、どの程度審査員側が想定していたかはわからない。
でも、審査に関係しないのなら設問するなと言いたいよね。解決案はどれなの?
今回のテーマとは関係ない所での評価・・?ここで商業施設系基準なの?。
社会的って・・・。

で、結果は一次通過もなし。  だから、代読もなし(アッチャー・・!)

ちょっと笑っちゃった。逆に読み的中!と気持ちがいい。

 でも、「今回の重要な課題に沿って、シェア(共有)をお願いします」、と事務局にメールした。

今回の反省
最終表現は、プロセスをイメージ出来るようにしないとダメ。
でも、長いプロセスは、どう要約すれば理解されるのかが課題。

正直言うとちょっとくやしい。 いや、結構くやしいね。
評価ではなく伝わらなかったのが。 

でも、僕の答えが最善などとは全然考えては居ないけど、主催者側としては一体どんな答えが欲しかったのだろう。 それを読むのが仕事なんだけど、鈍ったのかなぁ。
コンペは読めないね~。

以上。


-------------代読内容---------

阪神大震災があってから、被災者の人たちの避難場所や仮設住宅を報道で見ていて、そりゃ違うんじゃないかと言うデザインに出くわします。

緊急だから仕方がないのか、それとも別な事が原因なのかと、その都度思うのですが、時間が経つとその疑問も薄らいでしまいます。

今年になってから、このコンペを知り内容を読むと、なにかしらうっすら3.11を意識したような文面がありました。

この設問は、従来の建築学の範疇を超えた、トンデモなく難しい課題に思えました。
共有の背景にあるもの、共有すべきものは何かや、公と私の関係・提供と共有する側の格差などなど「共有」を維持するために起きる心理的パラドックス。それは淡々と形を追求しても解消できるものではありません。

そして、被災していない私達には普通の言葉であっても、当事者の人たちにとってはショックを受ける、あるいは傷をさらにエグルのではないかという言葉。それが「自立する未来に向けて」だったのです。

でも、どうして僕はそう思ったのか、あまりにスッキリしないので、それをまとめるために応募しました。

「自立する未来に向けて」と言うのは、誰が発している言葉なのか。そこに住む共有者達の言葉か、それとも施策提供側の言葉なのか。

自立する未来とは、現在は自立出来ていないことを意味しています。それが当事者たちの言葉ならまだしも、提供側の言葉であれば、当事者の心理状況を理解していないのではないか。と思えました。そもそも自立していないとはどういうことなのか。

建築側は常に提供側に居ます。少なくとも提供側と利用者とはその意味でギャップが有ります。
そしてまた、これらの施設は、今までのように保護収容・静養施設であって良いのか。
これが今回の重要な設問なのでしょう。

とにかく当事者が、どのような傾向にあるのかを知らずして、提供側の思惑優先での建築を考えることは、さらなるギャップを産むと思われます。

例えば、3.11の避難所では、阪神大震災の反省から、ひとつの地域コミュニティごとに施設に収容されました。それは話し相手が居ないと寂しいだろうからとの配慮ですが、それは一歩間違うと地域まるごと隔離することにもなりかねない。コミュニティはある条件下では排他的にもなり、ダイナミックにも動く場合があります。

人間の活動を、静的なものととらえてはいけない。本来、単体の建築枠から、はみ出るぐらいでなけでばいけないのです。

現状は、とりあえず作った並以下の建物に、とりあえず収容された状況。そこには選択の自由などありません。「仕方がない」と、そこに居る誰もがそう思う事で、なにか大事なものをあきらめてしまっている。そんな過酷な状況ではないかと思うのです。

そして彼らが言う言葉は、とりあえず生活できていることへの感謝の言葉と、遠慮がちに「若干、血が通っていない施設」という言葉。

なぜ、そのような表現になるのか、提供者側、あるいは施策に乗った建築家たちは考える必要がある、と思えます。「そういう目に見えないことは運営上か別のジャンルの問題」としても、環境の一端を担っている以上、建築は責任転嫁すべきではありません。

提供者も被災者も、見落としている、その失っているものは何なのかに近づかない限りは、この状況は繰り返されるのだと思います。

思うに、失っている物の内の一つは、人間関係から織りなされる自分像ではないかと考えます。それが失われると人は萎縮し希望が持てません。遠慮がちな言葉からも、少なからずこれが影響してるのではないかと読み取れます。まずは最初に、それを傷付けること無く復活させなければならない。
課題の「自立に向けて」とはこの事でしょう。

しかしながら、それには建築は無力です。いや、私にはアイディンティティを復活させる「建築デザイン」など思いつきません。しかし、社会心理学・行動学などの力を借りての「場のデザイン」ならばありえるのではないか、と言うのがこの案の趣旨です。

「創発」について。また、人が集う環境では管理などコントロールシステムも建築に現れてきます。
色々な人が集い、多様な価値観が集中するとそれらは相殺しあい、とりあえずの何かの優位性が見出されるまで、まとまりません。

そういう状況においても、自治会などに見られるピラミッド式の組織が妥当かどうか。
ピラミッド式の図式は管理手法としては一般的ですが、「現実のもの」とは関係がありません。
言うまでもなくそれは、人を管理する手法いわば責任の所在を示すものであって、物や事象の出来不出来をコントロールする手法では無いからです。

誰の能力も知らない中でも、その形から入る事が日常化されているけれど、負わされる責任のプレッシャーによって、決まりきったことしか出来なくなる。または失敗を隠そうとする。これらは日常でも体験することですが、この場では更に負い目を感じさせてしまうことになりかねません。

そしてもし、ここで新たな共有関係が組まれた場合、より円滑な共有関係は皆が平等、だとしたら、ピラミッド式の図式では責任の格差が生じて、平等であろうとすることに矛盾することになります。

その点、魚の群れのような生態系にあるコントロールシステムの「創発」は、コンピュータープログラミングのオープンソースの手法とよく似ています。詳しいことは省略しますが、魚の群れのように、必要最小限の能力だけで、その群れをコントロールできる。

そのルールに該当する物は日本人には染み付いているモラル。皆が「他の人のために」と考え行動するだけで、たったそれだけで他者との関係が意識づくられ「自分像」を取り戻せる。そんな気がします。


一方建物は、常に建設時のイニシャルコスト・建設後の維持費のランニングコストを考えなければならない。
建物は、その寿命が尽きるまでランニングコストを補給しなければ維持できないのです。これは、建築は建物としては物理的には自立しているけれど、経済的には自立出来ていないという事、それが運命付けられています。

そういうことから利用者は、この建物を利用した時点で、利益を得た受益者として利用料や家賃を払わなければならない。たとえ軽減されたとしても税の投入は救済的事業の終わるまで。金の切れ目が縁の切れ目とばかりに、自立に向けてココで築いたコミュニティは、その時また崩壊する訳です。

生命を守る緊急避難施設と自立支援施設とは分けて考えるべきですが、その、自立に向けての施設が自立出来て居ないのでは話になりません。今までの建物は地震や台風などの外力に耐えるだけだった。そう言う不器用な建物でもエネルギーは生み出せます。

建築が、そのほんの一部であっても、イニシャル・ランニングコストなどの、経済の呪縛から抜けだすことが可能であれば「並以下の施設」から決別させる道が出来る。

負い目を感じさせない、居住者の快適な生活を行うための計画は、ここからようやくスタート出来ると考えます。そして「共有すべきもの」は、前向きのモチベーション、自分たちの姿であろうと確信します。

と、ここまでが建築の形を考える前の、基本方針です。

後は提出したものをご覧ください。



読まれることがなかったパワーポイントデーター
(デザインプロセス概要、これが今回の主役、保管場所の影響でレイアウト・文字に乱れ。)
https://docs.google.com/file/d/0B4TleWp-kdP_eFZERjVHVGFUZW8/edit?usp=sharing

上記をまとめたデザインデーター PDF(風のタート・ルアン)
https://docs.google.com/file/d/0B4TleWp-kdP_WE1pVmN6R3FESmc/edit?usp=sharing



-------------------------------------代読内容終わり--------

万が一、一次審査が通り、代読が可能であれば、以上の事をお読みくださるようお願い致します。
コンペは建築家にとってはお祭りのようなものです。選ばれるかどうかは時の運と趣味の違い。

でも、設問を考えた人は建築界に影響を持つ人だと思いますので、このような考え方もある事が伝わればと、それが今回応募した本当の動機です。

-----------------------------------------メール終わり---------------------




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