2011年12月12日月曜日

建築書籍-1


以前からあるテレビ塔周辺の地下にある本屋を覗いた。

さほど本気で建築の本を欲しかった訳ではない。この建築分野は、あまり読みたいと思う本が出版されなくなって随分経つ。出るのはノウハウ本と技術資料と、私的な小賢しいか、あるいは鬱陶しい建築論となれば興味は湧かない。

もちろん、素人向けのナントカハウス的雑誌や、無駄に四角い形礼賛社会を反映した建築写真集の前は、見ないように気配を消して通りすぎることにしている。

必要とされる建築とウケ狙いの建築とのギャップは何処か今のエンターティメントに似ている。「これをやればウケる」その方法は知っているがそれをやらないのがモラルだと、実はこれでもカッコつけているのだ。

そう思って見渡すと、この店には欲しい本が見当たらない。いやそう言えば、読みたくない本すら見当たらない。
建築はそこまで人気が無くなった分野なのかと、月刊誌のコーナーに目を移すとあった、
リフォームとインテリア特集。その隣に暮らし関係の特集内容が「断捨離」。

アホか、馬鹿か、誰か止めろよ。収納ヘタを理由に出家を迫る様なことをするな。
宗教にも似た「収納上手礼賛」や、その反動もいいかげんにしろ。ただの物ごときに左右されるんじゃねぇよ。主従逆転するなよ情けない。
収納など出来なくてもいいし、物が溢れかえっていても別段それほど人格評価が悪く成るわけでもない。「収納教」に入信した連中はなんというか知らないが、そんなのは放っておけばよい。

一体、生活感のない、物が無駄に片付けられ隠された環境が良いと誰が決めたのだ?。

生活に支障をきたすほど物が散乱しているのは論外だが、人は生活するためには、対人関係と同相に、外部のモノとの関係を断ち切ることはできない。そのモノと人との間の関係が豊かさを生む。それは所有と言う関係より、モノに対する思いの密度が重要なのだ。その時間を積み重ねて人格やライフスタイルが出来上がる。

見かけの整理整頓の美しさなど偽装でしかないし、強迫観念にも似た過度な整理整頓など徒労で害にしかならないのだ。

まるで生活感のない、ただのモノでしかない住空間礼賛を見ると、この親は子供を教育するとき何を基準に躾て叱るのだろう。その無垢な子供は、その許容範囲の少ない親の目で見た美的感覚に染まる。きっとこの子らは物づくりも出来ないし自分で判断もできないように育ち、他人の評価に惑わされ、旅行はヨーロッパに憧れ、住むところは一切装飾のないモダンデザインで身につけるものは装飾過多のブランド品。


ついでに言えば対人関係もモノと同じように取捨を決めるのだろう。そういう余裕のないアンバランスにも気がつかないアホタレに育つのだろうと僕は確信する。

住人の気持ちが込められたモノがない、新築そのままの住空間は建築家のイメージした空間のままだ。その住人はその他人が作ったモノでしかない空間を維持管理している管理人なのか?。建築家は神ではない。勘違いして付け上がっている建築家もいるが、概して建築雑誌やマスコミに載るシーンはその類なのでそれが正しいかのような影響を受けて「収納教」が始まった。その反動と延長線の断捨離だ。

収納教を信じているのか、真剣に立ち読みするご婦人に後ろから「それは邪教だ、あなたは絶対モノ離れできない」と魔法をかけ、店を出た。

Posted by Picasa 

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