2012年3月29日木曜日

昨日友人から電話が・・・

明治館が解体されてるぞ。
建築文化的に見てももったいないなあ・・

そういう電話だった。国道縁に車を止めて連絡をくれた。その友人はこの建物のいきさつをある程度知っている。

ああ、そう言えば写真はもってないなぁ、改めて撮りに行ったこともなかった。

MAPやPanoramioにも無かった。
そう思うと何だか可哀想な建物だ。

せめて僕ぐらい最後の写真を撮ってやろうと行ってきました。

25程年前か、もうちょっと前だったろうか、それすらよく覚えていない。
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当時の機械HDD10MGとFDD1MG*2。
余りにも苦しかったので、今でも
捨てる事が出来ない。
多分この中にAUTOCADは有る。
初めて言うが、この建物はこの地方で初めてCADで書かれた建物だ。いや北海道で最初だったかもしれない。まだCADは研究半ばの時期、それを導入するとはずいぶん大胆なことをやったものだと思う。パソコンがPC98F2、10メガ(ギガではない)のハードディスクが40万だった頃。8インチフロッピーがスリスリガチガチと唸っていた。(左の写真)

AUTOCADがまだバージョン2の時。日本語のマニュアルもなくコマンドも限られていて、ほとんど2次元作図しか出来なかった。どこの大学にもまだ入っていなくて、参考にするところが全くなかった。

出力器のプロッターなど、いつも調子が悪く輪ゴムで調整していた。まともに書ける鉛筆などなく、ロットリングが2・3枚の図面でパァになる。カスレれば最初から書き直し、A2版の図面で一枚6時間ぐらいかかった。手の方が確実に早かったのだ。

「コンピューターで描くんだから簡単だろ」と思い込んでいる施主は、もう好き放題のことを言う。

CADが実用的な曲線が引けなかった頃、いわゆる植民地スタイルの装飾もきつかった。
今ならどんなグニュグニュ曲面でもやるけど、そのころは至難の技だった。

CADを使うと誰でも簡単にかける、そんな夢ははかなく消え、700万の借金が出来た。
必死になって独学でマスターした。LISP言語のオリジナルコマンドを作れるようになって後のCADソフトは何でも使いこなせるようになった。借金を返し残ったのは知識。しかし、それを活かす場所がここにはなかった。

その間の数年の間、家には週2日しか帰れなかった。
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道内を歩き、書き溜めた手書きスケッチ140枚の内、図面にしたのは4~50枚。その内15枚程度にまとめた。ハードルは施主の資金力だ。
札幌 豊平館

旭川彫刻美術館

参考ネタは現在の旭川彫刻美術館と札幌豊平館と旧函館区公会堂。

しかし個人が同等のものを欲しがるにはやはり資金的に無理がある。

省略したり削ってしまっては装飾の文化的意味がなくなるのを知りつつ、それをどこまでやるのか・・。

いや、これらの同時代の建物とて建てた当時は、装飾のルーツから言えばいわゆるホンモノではなかった。

では何が本物なのかと言われると困るのだが、当時もそれらしきものを建設主の意向に沿ってアレンジしてきたものだ。

本物らしきものは、繁栄するヨーロッパに憧れていた米国人設計者が持っていた植民地的イメージの中にある。

それでも良いと、欧米に憧れた日本ならではの、この時代の建築様式特有と言って良い。

そこまでして憧れたその建築主の意向を、市民が支持し受け継いで歴史となり、それらの建物もようやく本物になれたのだ。

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経済的状況として選択肢は無い。後は想いの強いクライアントの希望を如何に叶えるか・・だ。
出来れば本気になってバルーン工法でやりたかった。
(その当時の工法、札幌時計台などもバルーン。当時の米国建築の主流は納屋工法だった。)
でも、まだツーバイフォー工法もよちよち歩きの状態だったので、その前身の工法を、と言うのが無理。職人さんが出来る工法でやるしかない。

道内の建物を見ると、昔の外国の設計者も多分同じような事で悩んでいたような形跡がある。これ違うでしょうなんてのはざらだった。しゃあないよね。ゼロから教えられるものでもないし。

北見で最初のツーバイフォー(先の友人宅)を描いて、現場を見に行ったらスタッドに「いろはにほ・・」と手板の符号が書いてあった。(日本古来の管理手法)ずっこけたが、担当した大工さんはマジ。軸組と同じ様に丁寧な仕事をしていた。今では笑い話だが、最初がものすごく大変なのはいつの時代でも同じだ。
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解体された「北見・明治館」は、元々は開拓時代の北海道開拓使松浦武四郎にまつわる美術品やその他を集めた北見在住の「妻沼コレクション」を展示していた場所だった。
旧函館区公会堂


しかし、個人の資金力では余りにもハードルが高かった。個人資産を投げ売ってでも「北見に歴史的資産を」と奔走していた妻沼氏だったが、意外にもその真意に対して冷たい風評が流れていた。


実際に文化的資産として極めて高いコレクションだったにもかかわらず、行政も協力的ではなかった。現在はそのコレクションの行方は僕は知らない。



多分また、色々なところへ分散されていったのだろう。

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