【講 師】
隈 研吾(隈研吾建築都市設計事務所代表)
鈴木輝隆(聞き手/江戸川大学社会学部教授)
隈研吾(くま・けんご)氏は、世界的に超売れっ子の建築家である。
しかし、この地方、特にオホーツク世界遺産知床の足元でだ、「クマ」と言えば誰もが熊を連想してしまう。
僕は、建築関係なので「隈研吾とは・・」と割と知っている方だが、それでも耳で聞くと「クマは熊」。
隈取の隈とは、誰も発想しない。クマは特にこの地方の悩みの種でも有り、NHKでも特集が組まれるほどなんだから。
例え、隈氏が超売れっ子であっても、絶対に「クマ」は熊なのだ。
だから、「クマさんは」と聞こえると、反射的に頭のなかには「熊」が出てくる。「クマさん・クマさん」と2度聞こえると、2頭の「熊」が出る。
もう、このセミナーの冒頭から僕はこれに悩まされていた。(笑いツボ?)
どうやら、鈴木氏も隈氏も、その地域性に気がついていない。気がついていれば、一回ぐらいそれに触れ、ガス抜きしてくれ。それって、今日のテーマだろ。
「もう、クマって言うな・・・・」
隈 研吾(隈研吾建築都市設計事務所代表)
鈴木輝隆(聞き手/江戸川大学社会学部教授)
隈研吾(くま・けんご)氏は、世界的に超売れっ子の建築家である。
しかし、この地方、特にオホーツク世界遺産知床の足元でだ、「クマ」と言えば誰もが熊を連想してしまう。
僕は、建築関係なので「隈研吾とは・・」と割と知っている方だが、それでも耳で聞くと「クマは熊」。
隈取の隈とは、誰も発想しない。クマは特にこの地方の悩みの種でも有り、NHKでも特集が組まれるほどなんだから。
例え、隈氏が超売れっ子であっても、絶対に「クマ」は熊なのだ。
道産子がイメージするクマ |
もう、このセミナーの冒頭から僕はこれに悩まされていた。(笑いツボ?)
どうやら、鈴木氏も隈氏も、その地域性に気がついていない。気がついていれば、一回ぐらいそれに触れ、ガス抜きしてくれ。それって、今日のテーマだろ。
「もう、クマって言うな・・・・」
小さな建築 これは隈氏の現在の頭のなかに有る一つの方向性なのだろう。
建物は、3.11では無力だったと言う教訓。
これを隈氏は実感したようだ。
これについては多くの建築家も感じ、何とかならないものかと頭を悩ませている。伊東豊雄氏はこれに関する事後の建物をいち早く発表し、坂茂氏もコンテナ型仮設住宅などをやっている。
隈氏のそれは、前者2名のような「事後対策の物」かそれとも「事前の物」かは判らないが「自立する物」と言う表現をしていた。
冒頭に大きな災害で世界は進歩すると言った、それまで想定できなかった災害などから、現実的な対応策が練られて建物等が生まれ変わっていく事に触れた。これは誤解しないで欲しいが、進歩のために災害を歓迎するという意味ではない。過去はそうだったと言う意味である。
1666年のロンドン大火災、1755年のリスボン大地震、そしてパリは防災のために生まれ変わった。東京も同じである。
このセミナーでは「小さな建築」には明確な事を言っていなかったので、本から引用すると
--------------
『小さな建築』であるはずのものの世界が、開かれる。二重性によって、回転によって、曲面によって、小さくても大きなもの、閉じていても開かれたものが出現する。このようにして『小さな建築』が大きな世界と接続され、身体というちっぽけなものが、再び世界と結ばれる。『小さい』がゆえに世界と結ばれる。そのことだけを僕は伝えたかった」。
「主体が小さければ小さいほど、逆に、その主体にとって、世界は大きく、豊かで、多様性に満ち満ちたものとして出現する」。「日本人は、構造的合理性の追求より、ディテールを美しく磨き上げていくことに興味があった。今も昔も、日本人はシステムの合理性より細部にこだわるオタクなのである」。
---------------以上引用終わり-
これは僕の見方:産業革命以降、世界中一様に、職場は中央、労働者の住まいは郊外へ、と職住分離が行われた。また、地方と中央都市は地方が中央に従属されるように組み上げられた。これは経済効果・効率の為に有効な手段だったが、現在それこそ世界中で何やら閉塞感を感じ、色々な打開策などのプロジェクトがなされている。
主にそれらの都市や地域の用途が固定されて居ることから、もっと流動化させるために、観光や地域ブランドなど、都市では「まちなか居住政策」や「中央商店街対策(シャッター街対策とも・・)」などもそれに当たる。
僕は15年ほど前、生物的な「群れ」に興味を持ち、その中で「創発」や、IT分野でよく使われる「しきい値」が生物にも有る事を知った。およそ政治や政策の中では、制度下において市民は一様に扱うものとされ、生態的な「バラツキ」は許されない側にあるのだろう、という事に気づいた。実はそれは「群れ存続」としては危ないのだ。(だから僕自身ハグレになってしもた。)
いろいろな意味(経済やエネルギー)で自立・持続出来るのは、更新が可能な小さな施設である事は間違いない。住宅にしても、従来の経済に縛られれば(長期ローンに縛られることのない規模や代替え経済的方法論でなければ)、例えばTPPの様な遠く離れた経済問題でさえも容赦なく身近に影響を及ぼしてくる。経済がグローバル化した事から、人や仕事環境などの変動が昔よりも大きくなった事の対策として、固定される分野を身軽にしておかなければならない時代なのだと思う。
隈氏は、今回ローカル性に着目している。小さな建築、それには賛同できる。
次の話題
公開セミナーは時間制限があるので狭い一つテーマには時間を割けないので次の話題に飛ぶ。
ひと通り隈氏の作品例と現在の活動についてのスライドが上映された。
それらの疑似体験はHPを見てもらったほうがいいかもしれない。
その次
進行役の鈴木氏が神の子池に触れる。
その中で「あれをどう守るか」の話題になる。
隈氏もフラレてちょっと、戸惑っていたが自然保護と観光によって場が荒れる心配をしていた。入っていい所と悪い所のガードを、違和感なくどう作るかといった心配だった。
僕は、手すりなどの守る行為(ガード)をデザインするのではなく、守る意味をデザインすべきと思った。それは構築物に限らずに出来る。連動させれば更に良くなる。
また駐車場もあれではクオリティが低いとも・・。そうか、やはり僕のとは違うなぁ・・・。
街の中はどうでしたか?との鈴木氏の問も漠然だったのだが、どうすれば呼び込めるのかとの主旨の質問・・。
正直うと、僕がちょっとトリップしていたせいで、この時の隈氏の返答を覚えていない。実は鈴木氏の「呼び込める」という言葉に引っかかっていたからだ。
この清里町は、観光立地を目指しているのか?と思ったのだ。どうなんだろうか、清里町は本音の所で言えば、世界遺産が隣町にあって、風景も悪くないのだから、隣に入り込む観光客を呼び込めれば振興策になると必然的に考えているはずだ。しかも、それには最低限の投資で最大の効果を・・。そりゃそうだ。
それは、観光商業施設「街」であって、先に出た「小さな建築」とは意味が違うぞ?と、僕の頭はごちゃごちゃになってきた。それって対極じゃん。
副町長?は言う。この街は自然だけはいいのです。焼酎も良い、そんな中で観光をどうするか悩んでいるんです。
まぁ、一般に施設を作っての観光政策は博打なのだが、知床世界遺産となるとその博打であっても勝率はかなり高い。隣接自治体として賭けに乗らない方が愚策だろうが、どの程度、自治体としての節度を持つか、その線引の位置が悩みの種なのだと思う。
隈氏は、街としてのクオリティという事を再度言った。そうかもしれないが、ここで言うクオリティとは何か。言葉通りの品質なのか?その真意はわからないが、何か作る物のデザイン性を言っているようだ。
こういう時、目の前に見えている違和感はどうしたら表現できるのだろう。どうにも言葉に言い表せなくて困る。僕は、じぇんじぇんダメなのだ。
自治体の基本的な姿勢や制約は、町民にどれだけ支持されるかの政策を立てられるかが、常に問われている事。そして町民の支持と将来、これが何よりもの原動力。極論だが、それさえあれば何もいらない。地方交付金や中央とのパイプ、あるいは隣地観光地などは、全て自治体を維持するための方法論のはず。
町民からの支持。これはいくらそんな方法論だけでは、たとえ適切であったにしても得られない。当たり前だがそれには自治体と町民の信頼関係が必要。つまりは自治姿勢が町民をどれだけ愛しているか、町民がそれを感じ取っているか、なのではないか。
その関係さえあれば、町は維持できる。レベルが低い例えで申し訳ないが、多少不美人でも自分を愛してくれる存在は、唯一無二で代えがたい。その関係さえ築ければ、多少の失敗など何の問題もなく永遠にクリア出来る。デザインすべきはそれなのだ。そしてそれは建築などの構築物だけではなく、コミュニティの構成そのもの、それぞれの「関係」だ。町の維持に必要なのは、客観的な視点でのクオリィティなどではない。
また、個性はクオリティからは生まれない。ローカル性や個性が重要とされているのは、それが「個と廻りの関係性から生じる意味」が現れているからである。単純な「物」ではない。「特産物や伝統物」でもない。ましてや「自然素材であるから」でもない。尺度は、それを町民がどれだけ愛しているか、想いを込めているか、だったのではないか。隈研吾の作風を変えた梼原町の一連の作品はそう解釈していた。(いまさらクオリティ言うな)
まぁ、そう言う事を感じて発言したが、最初にハマっていた「クマさんは熊」という事がどうにも引っかかり、大すべりよりも大滑降して、上記のサワリしか言えんかった。当然、なんの事だかわからないでしょう。アハハ・・orz
あと、デザイン形態の質問があって閉会。
その後、懇談会。
でも、話す雰囲気ではなかったので、それと、なんかね、どこかの奥さんに睨まれてしまったり・・。自分自身、怪しいのは自覚しているし、そういうハレの場には似つかわしくないので、30分ぐらいで早々に退散。
感想
隈氏の普段の説や作品などを垣間見れて、また別な面で触発され面白かったです。
隈研吾を聞きに行く の3
建物は、3.11では無力だったと言う教訓。
これを隈氏は実感したようだ。
これについては多くの建築家も感じ、何とかならないものかと頭を悩ませている。伊東豊雄氏はこれに関する事後の建物をいち早く発表し、坂茂氏もコンテナ型仮設住宅などをやっている。
隈氏のそれは、前者2名のような「事後対策の物」かそれとも「事前の物」かは判らないが「自立する物」と言う表現をしていた。
冒頭に大きな災害で世界は進歩すると言った、それまで想定できなかった災害などから、現実的な対応策が練られて建物等が生まれ変わっていく事に触れた。これは誤解しないで欲しいが、進歩のために災害を歓迎するという意味ではない。過去はそうだったと言う意味である。
1666年のロンドン大火災、1755年のリスボン大地震、そしてパリは防災のために生まれ変わった。東京も同じである。
このセミナーでは「小さな建築」には明確な事を言っていなかったので、本から引用すると
--------------
『小さな建築』であるはずのものの世界が、開かれる。二重性によって、回転によって、曲面によって、小さくても大きなもの、閉じていても開かれたものが出現する。このようにして『小さな建築』が大きな世界と接続され、身体というちっぽけなものが、再び世界と結ばれる。『小さい』がゆえに世界と結ばれる。そのことだけを僕は伝えたかった」。
「主体が小さければ小さいほど、逆に、その主体にとって、世界は大きく、豊かで、多様性に満ち満ちたものとして出現する」。「日本人は、構造的合理性の追求より、ディテールを美しく磨き上げていくことに興味があった。今も昔も、日本人はシステムの合理性より細部にこだわるオタクなのである」。
---------------以上引用終わり-
これは僕の見方:産業革命以降、世界中一様に、職場は中央、労働者の住まいは郊外へ、と職住分離が行われた。また、地方と中央都市は地方が中央に従属されるように組み上げられた。これは経済効果・効率の為に有効な手段だったが、現在それこそ世界中で何やら閉塞感を感じ、色々な打開策などのプロジェクトがなされている。
主にそれらの都市や地域の用途が固定されて居ることから、もっと流動化させるために、観光や地域ブランドなど、都市では「まちなか居住政策」や「中央商店街対策(シャッター街対策とも・・)」などもそれに当たる。
僕は15年ほど前、生物的な「群れ」に興味を持ち、その中で「創発」や、IT分野でよく使われる「しきい値」が生物にも有る事を知った。およそ政治や政策の中では、制度下において市民は一様に扱うものとされ、生態的な「バラツキ」は許されない側にあるのだろう、という事に気づいた。実はそれは「群れ存続」としては危ないのだ。(だから僕自身ハグレになってしもた。)
いろいろな意味(経済やエネルギー)で自立・持続出来るのは、更新が可能な小さな施設である事は間違いない。住宅にしても、従来の経済に縛られれば(長期ローンに縛られることのない規模や代替え経済的方法論でなければ)、例えばTPPの様な遠く離れた経済問題でさえも容赦なく身近に影響を及ぼしてくる。経済がグローバル化した事から、人や仕事環境などの変動が昔よりも大きくなった事の対策として、固定される分野を身軽にしておかなければならない時代なのだと思う。
隈氏は、今回ローカル性に着目している。小さな建築、それには賛同できる。
次の話題
公開セミナーは時間制限があるので狭い一つテーマには時間を割けないので次の話題に飛ぶ。
ひと通り隈氏の作品例と現在の活動についてのスライドが上映された。
それらの疑似体験はHPを見てもらったほうがいいかもしれない。
その次
進行役の鈴木氏が神の子池に触れる。
その中で「あれをどう守るか」の話題になる。
隈氏もフラレてちょっと、戸惑っていたが自然保護と観光によって場が荒れる心配をしていた。入っていい所と悪い所のガードを、違和感なくどう作るかといった心配だった。
僕は、手すりなどの守る行為(ガード)をデザインするのではなく、守る意味をデザインすべきと思った。それは構築物に限らずに出来る。連動させれば更に良くなる。
また駐車場もあれではクオリティが低いとも・・。そうか、やはり僕のとは違うなぁ・・・。
街の中はどうでしたか?との鈴木氏の問も漠然だったのだが、どうすれば呼び込めるのかとの主旨の質問・・。
正直うと、僕がちょっとトリップしていたせいで、この時の隈氏の返答を覚えていない。実は鈴木氏の「呼び込める」という言葉に引っかかっていたからだ。
この清里町は、観光立地を目指しているのか?と思ったのだ。どうなんだろうか、清里町は本音の所で言えば、世界遺産が隣町にあって、風景も悪くないのだから、隣に入り込む観光客を呼び込めれば振興策になると必然的に考えているはずだ。しかも、それには最低限の投資で最大の効果を・・。そりゃそうだ。
それは、観光商業施設「街」であって、先に出た「小さな建築」とは意味が違うぞ?と、僕の頭はごちゃごちゃになってきた。それって対極じゃん。
副町長?は言う。この街は自然だけはいいのです。焼酎も良い、そんな中で観光をどうするか悩んでいるんです。
まぁ、一般に施設を作っての観光政策は博打なのだが、知床世界遺産となるとその博打であっても勝率はかなり高い。隣接自治体として賭けに乗らない方が愚策だろうが、どの程度、自治体としての節度を持つか、その線引の位置が悩みの種なのだと思う。
隈氏は、街としてのクオリティという事を再度言った。そうかもしれないが、ここで言うクオリティとは何か。言葉通りの品質なのか?その真意はわからないが、何か作る物のデザイン性を言っているようだ。
こういう時、目の前に見えている違和感はどうしたら表現できるのだろう。どうにも言葉に言い表せなくて困る。僕は、じぇんじぇんダメなのだ。
自治体の基本的な姿勢や制約は、町民にどれだけ支持されるかの政策を立てられるかが、常に問われている事。そして町民の支持と将来、これが何よりもの原動力。極論だが、それさえあれば何もいらない。地方交付金や中央とのパイプ、あるいは隣地観光地などは、全て自治体を維持するための方法論のはず。
町民からの支持。これはいくらそんな方法論だけでは、たとえ適切であったにしても得られない。当たり前だがそれには自治体と町民の信頼関係が必要。つまりは自治姿勢が町民をどれだけ愛しているか、町民がそれを感じ取っているか、なのではないか。
その関係さえあれば、町は維持できる。レベルが低い例えで申し訳ないが、多少不美人でも自分を愛してくれる存在は、唯一無二で代えがたい。その関係さえ築ければ、多少の失敗など何の問題もなく永遠にクリア出来る。デザインすべきはそれなのだ。そしてそれは建築などの構築物だけではなく、コミュニティの構成そのもの、それぞれの「関係」だ。町の維持に必要なのは、客観的な視点でのクオリィティなどではない。
また、個性はクオリティからは生まれない。ローカル性や個性が重要とされているのは、それが「個と廻りの関係性から生じる意味」が現れているからである。単純な「物」ではない。「特産物や伝統物」でもない。ましてや「自然素材であるから」でもない。尺度は、それを町民がどれだけ愛しているか、想いを込めているか、だったのではないか。隈研吾の作風を変えた梼原町の一連の作品はそう解釈していた。(いまさらクオリティ言うな)
まぁ、そう言う事を感じて発言したが、最初にハマっていた「クマさんは熊」という事がどうにも引っかかり、大すべりよりも大滑降して、上記のサワリしか言えんかった。当然、なんの事だかわからないでしょう。アハハ・・orz
月が綺麗だった 屋外喫煙所から 19:30頃 |
あと、デザイン形態の質問があって閉会。
その後、懇談会。
でも、話す雰囲気ではなかったので、それと、なんかね、どこかの奥さんに睨まれてしまったり・・。自分自身、怪しいのは自覚しているし、そういうハレの場には似つかわしくないので、30分ぐらいで早々に退散。
感想
隈氏の普段の説や作品などを垣間見れて、また別な面で触発され面白かったです。
この写真は、紋別の元気いっぱいの建築士会の人たち。
名刺交換するのを忘れたので、ここに掲示。
清里、まんじゅうウマシ!
多分、まんじゅうを見ている。 |
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