だから恥ずかしい過去を暴露するようなもの。そしてボツネタなのだから当然駄作。
僕は過去に作った建物を作品などと言って掲載することはしない。これは昔からだ。
つまりはこれは商売としては実績を説明できない事を意味している。
なぜそうするのかと聞かれた時、若い時には「次の建築が唯一の作品だから」などと格好をつけていたが、実は過去の物に関していつも反省して居たからなのだ。「ああすればよかった。こうすればもっと意向を汲み取れた。」などと、どこかに必ず悔やむ所がある。それを隠して、商売ネタとして宣伝に使うことはとても出来ない。
不誠実だったかもしれない事の迷いに関して、他の建築家はどうやってその気持ちの整理ができるのだろう。スゴイと思う。だから絵画など後に手を加えられる芸術作品などを見ると「いいよな~、それが出来て」と今でも羨ましく思う。
建築は、最善や次善の手を尽くしても、手を離れてしまってはどうしようもない事がある。かと言ってそれに責任をとれるほどの耐力もない。そう考えると、とても厚顔無恥には成り切れない。
それは相変わらず。商売には不利だが・・しかたがない。
ま、昔の自分へのボツネタならば無責任に笑って見せることが出来る。
ということで駄作を晒してみる。
僕は過去に作った建物を作品などと言って掲載することはしない。これは昔からだ。
つまりはこれは商売としては実績を説明できない事を意味している。
なぜそうするのかと聞かれた時、若い時には「次の建築が唯一の作品だから」などと格好をつけていたが、実は過去の物に関していつも反省して居たからなのだ。「ああすればよかった。こうすればもっと意向を汲み取れた。」などと、どこかに必ず悔やむ所がある。それを隠して、商売ネタとして宣伝に使うことはとても出来ない。
不誠実だったかもしれない事の迷いに関して、他の建築家はどうやってその気持ちの整理ができるのだろう。スゴイと思う。だから絵画など後に手を加えられる芸術作品などを見ると「いいよな~、それが出来て」と今でも羨ましく思う。
建築は、最善や次善の手を尽くしても、手を離れてしまってはどうしようもない事がある。かと言ってそれに責任をとれるほどの耐力もない。そう考えると、とても厚顔無恥には成り切れない。
それは相変わらず。商売には不利だが・・しかたがない。
ま、昔の自分へのボツネタならば無責任に笑って見せることが出来る。
ということで駄作を晒してみる。