2012年7月1日日曜日

時代劇、座頭市

BSで座頭市シリーズが流れている。

好きといっても、それほどでもないからなのか、見ている内にだんだんマカロニウェスタンに見えてくる。




そう、イタリア映画界の巨匠フェデリコ・フェリーニのような軽快なストーリーと悪者と見れば情け容赦なく切る!

1話にどんだけ死人が出るのか・・。「市」はカウボーイでもある。


敵は主に、自分たちのことしか考えない、街を貪欲に牛耳るヤクザか役人である。
しかし、なぜ世界中どこででも、町の顔役と役人はいつも悪者なのか。
きっとそれにはそれ相応に世界中に共通した、うなづける理由があるのだろう。
でなければ、こういうストーリーが産まれるわけがない。
根深い不信感がある証拠だが、今はそれは解決できているのだろうか・・?


とにかく勧善懲悪。とてもわかりやすいストーリーだ。本来「法」もそのはずなのだが・・。


ところで「市」は居合斬り。仕込み刀の届く範囲が「市」にとって、全身全霊をかけた存在をかけた真剣勝負の範囲。斬りたくない相手で有っても場合によっては斬らなければならない。
そして、真剣に立ち会う事が「市」の正義でもある。妥協や様子見など、そこにはない。

それが「市」の存在価値なのだからしかたがない。
後半の太刀周りのその刀には、いつも庶民のため正義のためと、明確な目的がある。
だから、こんな「市」のような「無法者・極悪人・人殺し」にも共感を覚えてしまうのだ。


見終わって、チャンネルを切り替えると、これがまた政治。
実は、庶民から派遣された短期臨時雇用の公務員のくせに、
日本の指導者集団と思い込んでいる、始末の悪いヤカラのお出ましである。
どこをどう勘違いしたら、自分たちが庶民よりも優れていると思えるのか。
お前たちも一皮むけばただの庶民だろう。バッチ一つでああ勘違い。
あいも変わらず鈍感・私腹のご様子。


こちらにはイサギの悪い街の顔役とダブる、親分衆がずらりとお出ましだ。
世の中をややこしくしている張本人たちと言ってもいい。まぁ、面倒な連中に違いはない。

案の定、刀の切っ先が届かない所で、手下どもと用心棒とやらの数の調整、である。
どこに、世のため人のため、の「公務」がある?渡世人として恥ずかしくないのが不思議。

正論を述べるのに、まずは頭数が必要だと言ってはばからない阿呆どもばかり。
そこが庶民を馬鹿にしている。真に正論ならば聞くものは心を打たれ、共感者は自然増加する。
「市」を見習え。鋭い切れ味には誰もが感動するのだ。

彼らの存在意義は政策でしかない。その刀が刃こぼれし、そのダンビラを振り回す腕も衰えている。
政治は数、とは言えど、無用の執着をして配下の者を動かすさまは誰が見ても「卑怯者」だ。
正々堂々と議論して戦え。その為に国費で雇われた用心棒だ。


そして、お前たちが主役なのではない。主役は庶民、それを従わせる役だと勘違いして付け上がる。
やってることは、もうまるっきり、ドラマが始まる前から、バッサリ斬られて当然の悪役ぶりである。

「市」の勧善懲悪、悪者退治は庶民の素直な感情。
ならば、こいつらを何回斬るだろうか。
庶民が裏切られ、迷惑の数々を思えば、微塵切りにするのかもしれない。
為にならない用心棒は斬られなければならないのだ。


遠巻きに聞こえないような議論をするような議員は無用。
数合わせの寄生虫下っ端議員は無用。
勢いだけでしゃしゃり出て、中身の無いチンピラ議員は無用。


その貧相な付け焼刃の政治理論は、その辺の竹やぶから切り出した弱っちい竹槍とおなじ。
ワーワーキャーキャー騒々しいだけで、致命傷も与えられない竹やぶ議論はもう見飽きた。
庶民にわかりやすく、まっとうな議論が出来る議員だけが生き残れば良い。


「市」っあん、今はどこを旅しているのか・・。
そういえば、このシリーズの主題歌は裕次郎だった。

0 件のコメント: