2015年6月28日日曜日

日曜朝。僕ら夫婦の話題。

「他人に迷惑をかけてはいけない」
固く固く言われて来たこの言葉が、日曜日朝の僕ら夫婦の話題。

僕は周りに迷惑かけっぱなしなのだが、奥さんはそれは一線を守って来ている。
奥さんが、助けてもらってもいいんだと最近気が付いた、と言う。
何のことかと思ったら、
 
ちょっと沢山する事があって間に合わない時、手伝おうかと声かけられた。
普通だったら、いいです自分の仕事だから、と断って来た。
周りの人に聴くと他の人は手伝ってもらってる。それ聞いてああ、手伝ってもらってもいいんだと初めて思った。
との事。お前さん、そりゃ頑張り過ぎだな・・。ww ま、確かに彼女はそうなのだ。ひたすら頑張る姿は僕の支えでもある。
 
振り返ってみれば、過去にボランティア団体で参加していた時、偽善的と言う批判には「だからそれがどうした」との姿勢でやっていた。
「他人に迷惑」とか、そのレベルで世の中成り立っているのではない。とまぁそんな感じ。
 
そう言えば子供たちにもそう言って教えたかもしんないな・・。
僕も周りに頼ったことは無いのだが、活動する限りは何かしら影響はあったようだ。
一番の迷惑は家族だったに違いない。

 
所で、疑いもなく自分に言い聞かせて来た「他人に迷惑をかけてはいけない」は、いつ頃染みついたんだろうと思う。
僕らも父母からだったのだろうか。学校だったのだろうか。

オヤジは思いつくととりあえずやってみるタイプだったので、民主的な「家族会議」みたいな事にもチャレンジしていた。だがくじけるのも早かった。僕ら兄弟が意見を持つようになってからはその会議は開かれなくなった。(笑)そう言えば家訓らしい物もあった。(笑) 内容は・・うう・・思い出せない・・。

夫婦して心当たりを思い浮かべようとするのだが、該当者無しなのだ。
子供たちには教えておきながら、そのルーツが判らない・・。
 
「まちづくり」活動やNPOで動くときは、それらの政策や歴史などを否応なしに学ぶのだが、すべてはコミュニティと関連してくる。

「他人に迷惑をかけてはいけない」は、一切出ない。むしろそれが支障になっている場合が多いのだ。共働や自立や秩序維持、「他人が気持ちよくなる為」の無名性の配慮はあるが、関係を自ら断つようなこの言葉は滅多に見当たらない。

むしろ「人間は迷惑をかける存在なのだから(周囲と無関係では存在できない)」と、そこは(存在を)肯定しておかなければ、個人的にも社会的にも、話は進展しないのだ。

今風に言うと、自治・共治・法治。
自分が出来る事は自分でやる。出来なければ周囲・地域でやる。それが無理なら、行政など制度化して、生活環境を治める。

いわゆる補完性の原理に基づくもの。このガバナンスストーリーの中では「イケナイ」とはしていない。(そりゃね、パターナリズム的であるとかこう言う統治モノには批判は色々あるけど、今の行政のコミュニティ政策はこれで成り立っている)

元々あった日本のコミュニティ関係は、「イケナイ」とかのそんな希薄な物ではなかった。こんな個人主義的ではなかったのだ。あ?!「個人主義?」自分で思い浮かべたこの言葉。
 

ははぁ、どうやら、これも戦後教育の派生物(アメリカ製)なのかもしれない。

おいおい・・・・それに突き当たるのも 病気か wwww

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