2015年7月1日水曜日

デザイン design(計画)屋は因果な商売

芸術家は自分の思いや感情を表現するのに対して、デザイン屋は顧客の欲望や願望を「程度に合わせて」形にする。
一旦経済課題など現実に引き戻し鏡を見せて、異を唱えたり賛同したりの意見を言い、それから良い方向に持って行くにはどうするかという事を種々選択協議する。

社会性を帯びれば「それはしてはいけない」と異を唱える場合もある。これは実にリスキーな状況。
その相手が、自分自身への耐性が無い場合、これは両刃の剣。少なくとも相手の事を真剣に考えている、第三者一番目候補の私を対象に否定したくなる。だがそれは承知の上だ。

必然として「合わない」となる。
だが、ならば依頼者に迎合しただけのデザインを、そのまま世に出して良いのかと言う事。
依頼された程度、そのまま表現すればそれは楽だ。だがそれを世に出した以降変更には膨大なコストがかかる建築だからこそ慎重にすべきだ。

これは事前のシュミレーション。この段階では私一人だけだが、現実に反対する人がいるとしたらどう対処するのか。それが欠けているので覚悟のほどをあえて聞く。

こちらは「良い人である」「社会に貢献する」「有益な存在」と言う看板をさりげなく演出する。
少なくとも「自己中心的」「排他的」「教条的」など、いわゆるマイナスイメージにはフィルターをかける。でもそれはごまかしのオブラートではなく、一連のやり取りの中で、社会的に共感を産む本物となってほしいのだ。



数年前、ある専門分野で高度な名声がある事業主。商業分野での試験段階が済み、実施生産したいとの事で、生産工場を依頼された。
依頼に応じて、補助金等の制度資金など、資金計画を立てる期間、この事業の動機や目的・目標・将来像などをヒヤリングしていく。
その中で依頼主は「金・地位・名声」このビジネス事業で求めたい物は何なのか・・・。(ビジネスに住宅に求められるような安息はあり得ない)

結局僕が出した提案。
「全ての生産物はOEMとして、研究機能機関をつくるべき。これによって工場建設費用は不要になる。」
依頼主はぶち壊しの提案に最初びっくりしていたが、その点に関しては納得して生産工場事業化を見送った。

僕は自分の仕事を傍に捨てたが、これも田舎のデザイン屋の仕事だと思ってる。なによりも僕に声をかけてくれた恩に報いる為には、依頼者には絶対にハズレくじを引かせるわけには行かない。これが最優先。

デザイン屋の評価は表現した形とその運用と方法論が全て。
ではあるが、それに至るまでの根拠はある。感覚的ではない。
表現したのは結果だけなのだ。

実は市場調査や製品官能試験など、依頼主の成功の為の調査も行っていた。
持っている製法ノウハウはどの程度なのか、趣味の範囲かビジネスレベルか。
他社との競合は無いか・・。ノウハウ実現コストはいくらなのか。
これらの分析・処置は滅多に依頼主には説明はしない。
依頼主が知らなくて良い事は沢山ある。

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