2014年1月12日日曜日

あいかわらず「モラル」を引きずっている。

去年の今ごろ、ある建物の事で頭がいっぱいだった。
建物の形状や性能の事ではなくその運営方法。

仮設住居と言う状況。人が集って生きる、共同体の分野。
その建物は公によって設営され、多分町内会に似た住民組織で日常管理される。
「ルール」が作られ色々な想定のもと処理方法が決められていく。

そのうち「ルール」は規範となって破ることを許さなくなっていくのだろう。
多分、自分達で拘束しあう状況に落ち着く。それが妥当だと。
しかし、それは快適なのだろうか。快適な暮らしとして進化してるのだろうか。

その「ルール自体」は建築の分野ではないのだが、そう言った状況を円滑にするのはデザインの仕事でもある。無視して通るわけには行かない。



そのうち必ず一人歩きをする「ルール」。
例え、中身がなくなっても、それに気が付かなくても、気づいても「ルール」は「ルール」であろうとする。
いつも僕は、それがとてつもなく大きな問題に感じている。(アンチなのかもしれない)



そう行き詰った時、一つの解決策を思いついた。
「ルール」の前に「モラル」さえあれば・・・・、だ。
答えは簡単だった。

ごみを捨てない、他人に迷惑をかけない。他人を思いやる。
いわゆる「砂場の哲学」(『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』)
そういう小さなこと。

「モラル」は拘束しない。問題が生じる前に回避するからだ。
「モラル」は優劣や勝敗、守るもの守らせる者の上下関係をつけない。
無言で確認しあうだけでいいからだ。



「モラル」は「道徳」「倫理」「良識」などと言われる。
それは自分たちの幸せや安息を共有したところから産まれる。
今では「モラル」は死語に近い。
趣味も生活も、必要以上に分化され、共有が行われないからなのだろう。

「モラル」さえあれば「ルール」は最小限に抑えられる。
つまり「モラル」の母体「価値の共有やビジョン」が示されているかどうか。
都市でも田舎でも、集う暮らしに、もう一度確認しなければならないことなのだろう。



多分、それは形ではなく、気づかい、息つかいのようなものかもしれない。
「他人が気持ちよく過ごせるため」の清掃かもしれない。
一期一会、茶の湯・花道の世界観かもしれない。
あるいは信仰の形かもしれない。
「モラル」は変幻自在だ。

昨年「お・も・て・な・し」は流行語となった。
「モラル」はそれらの集大成でもある。
多くの日本人がまだ共有しているもの。

相変わらず世界中の建築がザハ・ハディッドのような新奇な形が飛び交う中、
僕は相変わらず見えない「モラル」を引きずっている。

答えは簡単だったはずだ・・・。

0 件のコメント: