鴨長明はなぜ外装材に網代を使ったのだろうか。建物の記述はこれだけだ。
方丈の宿り
こゝに六十の露消えがたに及びて、更に末葉のやどりを結べる事あり。いはば狩人の一夜の宿りをつくり、老いたる蠶のまゆを營むがごとし。これを中ごろのすみかになずらふれば、また百分が一にだも及ばず。とかくいふほどに、齡は年々にかたぶき、住家はをりをりにせばし。その家のありさま世の常ならず。廣さは僅に方丈、高さは七尺が内なり。處をおもひ定めざるが故に、地をしめて造らず。土居を組み、うちおほひを葺きて、つぎめごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬことあらば、やすく外に移さむがためなり。その改め造る時、いくばくのわづらひかある。積むところわづかに二兩なり。車の力をむくゆる外は、更に他の用途いらず。
いま日野山の奧に跡をかくして後、南に假の日がくしをさし出して、竹の簀子を敷き、その西に閼伽棚を作り、中には西の垣に添へて阿彌陀の畫像を安置し奉り、落日を受けて眉間のひかりとす。かの帳のとびらに、普賢ならびに不動の像をかけたり。北の障子の上に、ちひさき棚をかまへて、黑き皮籠三四合を置く。すなはち和歌、管絃、往生要集 ごときの抄物を入れたり。傍に箏、琵琶、おの\/一張を立つ。いはゆるをり箏、つぎ琵琶これなり。東にそへて、わらびのほどろを敷き、つかなみ(*束並=藁の敷物)を敷きて夜の床とす。東の垣に窗をあけて、こゝに文机を出せり。枕の方にすびつあり。これを柴折りくぶる便とす。庵の北に少地を占め、あばらなる姫垣を圍ひて園とす。すなはちもろ\/の藥草を植ゑたり。假の庵のありさまかくのごとし。
まぁ建築工法などの考察では、京都工芸繊維大学名誉教授・中村昌生氏の監修で下鴨神社に良質のモデルが建てられている。だが、このモデルでもどうも納得がいかない所が有る。
僕が畏れ多くも他の学者へ異説を唱えるのは、上記の文の中間下寄りの「かの帳のとびらに、普賢ならびに不動の像・・」の所。これには「とびら」とある。
一般に宗教像は壁にかける物なのだが、ここに矛盾があるのではないか?。これが矛盾しない理由として次のような事が考えられる。
つまり、鴨長明は外壁全てを扉でもあり蔀戸でも壁でもあるような「帳壁」として、今風に言えば「カーテンウォール」を考えたのではないか?と言う妄想からだ。
一般に宗教像は壁にかける物なのだが、ここに矛盾があるのではないか?。これが矛盾しない理由として次のような事が考えられる。
つまり、鴨長明は外壁全てを扉でもあり蔀戸でも壁でもあるような「帳壁」として、今風に言えば「カーテンウォール」を考えたのではないか?と言う妄想からだ。
それに中村昌生氏の監修モデルは内装に縦板が貼られている。そして前のページにも書いたがこの網代パネルが柱内側に収まっている。この2点は納得が行かない。網代を使う意味がないのだ。
僕が、鴨長明が網代を使った理由を考えたのは、当時でも下記のような物が想定できるからだ。
この網代パネルは5つの部位に分けられる。
外壁であるから網代を防水層として採用しているはずである。ならばそれを取り付ける桟は、水滴の早期処理と言う理由から、縦桟しか選択肢が無い。
必然として内装板張りは横貼りとなる。
必然として内装板張りは横貼りとなる。
板の相じゃくり技術は当時も有った。神社仏閣などはもっと板厚の部材を、現代の下見貼りサイディングのように加工して使用していたのだ。
「部材をより軽量に」と言う命題と、やはり板は高価だったのだろう。
そして、鴨長明はある事を知っていた。
他の「方丈庵モデル」には、「なぜ網代なのか」はデザイン的素材か軽量素材程度にしか記述がないのだが、網代にはこういう効果がある。
今風に言うと「等気圧理論」。
建築の、サッシやカーテンウォールのプロ、あるいは流体力学研究者なら、もう判るだろう。
防風雪研究者も最近はこれを使う。
簡単に言うと、雪は3cm程度の網を潜り抜けられない。衝突直前で風速が落ちてしまうのと、カルマン渦で背面気圧を上げる効果があるからだ。
吹雪で有っても大半はその手前で落ちる。簡単軽微な網程度で70%の防雪が出来れば、成功である。
同様効果で、網代は雨水のほとんどをその本体に付着させる効果がある。特に裏面が「層」として形成されている場合はその効果は絶大だ。
所で、他の「方丈庵モデル」では、網代を直接板張りの上に貼っているのだろうか。それであれば単なる化粧材としてしか考慮されていない。網代と板の間には必ず空間がある。
そうでなければ、板に水滴が走り劣化させてしまう。それでは「高価な板を保護する」あるいは「軽量化」の意味がない。水滴遮断、これがあるから、内装の板厚を薄く出来る。
鴨長明が網代を使った理由はそこにあると僕は考える。
このパネルは現在のカーテンウォールとも遜色ない。現代における外壁通気層は断熱材による湿潤現象を早期に取り除く目的が主だが、断熱材が無かった時代には、水滴を遮断する層として用いられた、と言うのが僕の結論。
いやはや、800年前の日本の建築文化。
とんでもね~な・・・。
と畏れ入りながら・・。
-------------以下追加画像--
方丈庵は方丈記の記述通り、プレファブなのだが、図面まで書いて検討したとの事。
もし僕が鴨長明だったなら、部品の交換やメンテナンスなどを考え、全ての網代パネルは同寸のカーテンウォールとして考える。
いや、僕でなくとも痛みやすい個所だ。共通で交換可能部品を考えるのが順当と思われる。
つまり、壁でもあり蔀戸でもあるならば、西側の部分を残して(宗教エリア)、こういう風に全面解放も可能になる。
日本建築にはガラスのない時代。「縁」を概念として持っていたからにはこういう使い方もあったかもしれない。
解放した外観。
(東南アジアではこのような民家が見られる。)
大八車を置いてみた。この家は大八車2台分だとの記述があるので、その内積み込んでみようと妄想している。
方丈記関連
1.方丈記の方丈庵-1 日曜日なのでTinyHouse
2.方丈記の方丈庵-2 今までの研究内容に納得がいかない
3.方丈記の方丈庵-3 ディテールについて
4.方丈記の方丈庵-4 カーテンウォール「網代」
5.方丈記の方丈庵-5 外装の変更
0 件のコメント:
コメントを投稿